いつだったか職場のC春女史が一度競馬場に行ってみたいというので、その場で安易に連れて行く約束をしてしまったのだが、やっと脱獄してきた収容所へ再び舞い戻らねばならない囚人のような、あるいは喧嘩して海に逃げ込んだ鯛焼き君が再び店の叔父さんに会いに戻らねばならぬような、もしくは忘れかけていた電信柱へテリトリーを確認しに戻らねばならぬ野良犬のような、何とも言えぬバツの悪さを感じないわけでもなかった。しかも競馬場は必ずしも楽しい思い出が得られると約束されている施設ではないわけで、JRAのサービスとはつまるところ予想とは関係のないところでニコニコするばかりの性質のものである点がやや気がかりでもある。

そんな風に口約束をした後、しばらくそういう心境のなかでオフィスの窓などから墨田川のきらめきなどを遠く眺めていたのだったが、そのうちに参加希望者がじわりと集まって、気がつけば具体的に、つまり本日この日に集合して揃って府中競馬場へ遠征しようということで話がまとまってしまっていたのである。まあ、いいか。

8Rからメインまで4鞍遊ぶ計画で、午後1時にJR府中本町駅の改札口を出たところで待ち合わせた。いやそもそも 「府中てどこら辺ですか」 とか、「何時に出ればいいかしら」 とか、そういう相談から始まっていたわけで、さらには、防寒具が要るねとか、筆記用具はあったほうがいいねとか、なにしろ自分以外の全員が初心者という厳しい状況を楽しんでいるもう一人の自分に縋る気持ちで準備をすすめてきたわけである。

「改札は1つしかないから」 と断言したのは自分だが、実際に行ってみると2つあったりしていきなり混乱させてしまったことに気づく。自分は携帯電話を持っていないので、皆どうするだろうかと心配していたら、改札を出ずに両方の改札口が見える地点に集まっているのが見えた。やはり困っているようだ。改札の外から熱烈な視線を送り続けること5分にしてやっと気づいてもらえて、とりあえず時刻どおりにK山女史、カゴシマ氏、K上氏、の3名と合流。C春女史とM元氏が少し遅れる模様。K山女史は新聞をもっていなかったので、そういうこともあろうかと買い足しておいたオレさまの東スポを貸してやる。今日は東スポ杯だからね、とか解説を付け加えてみたりするが、まるきり反応してこない。まあ、いいか。

自分は東スポの他に 『勝馬』 を用意してあった。本気モードなのである。カゴシマ氏はここに来る途中で専門紙の 『馬』 を買い求めてきていた。確かにその紙名なら競馬用の情報新聞であるに違いない。高いですねえ、というので、自分もしみじみ高いよねえと同調してみたり。赤いサインペンも持っているらしい。鳥打帽もかぶっている。なかなか作法を心得ている。過去に1度だけ競馬場に来た事があるというK上氏のほうは、場内でスポーツ新聞を買うつもりらしい。よしよし。とにかく皆が、前日から予習などして来るほどにイレ込んでいたらどうしようかと思っていたので、ひとまずほっとする。

競馬場に入場するためには200円かかる。そのことを伝えておくことも忘れていたが、誰からも不平があがってこなかったのは、眼前に横たわる競馬場の広さと明るさを演出してくれたお日様のおかげに違いない。本当に晴れて良かった。自分としてはターフビジョンが思ったより小さくみえることに内心がっかりしていたのであるが、でかい画面だとか、芝生が綺麗だとか、見ろ人がゴミのようだとか、皆はそれなりにツアーの価値を認めてくれたようだ。ずっと晴れていてくれたならなお良かったのだが。

入場した直後には、据え置かれたレーシングプログラムやパンフレットをひととおり差し抜いてもらっておく。皆も同じようにする。これは儀式、もしくは作法だからな。只でくれるものは何でももらっておこう。とりあえず第1コーナー付近のせまい芝生あたりに立って、すぐに発走する第7Rを観戦。ほら右手奥で輪乗りしてるよとか、左手奥からこちらに坂を上ってくるよ、ほらきたよ、とか説明する。うーむ。しかしまるきり蹄の音が響いてこないのはどうしたことか。これは誤算。うーむ。もしかするとダートだったからかも知れぬ。本日はどうにもあの、自分が始めて競馬場に訪れた日に感動した、あのサラブレッドが駆け抜ける勇壮な地響きを初心者の皆にも体感させたい。芝のレースに期待する。

とりあえずパドックを紹介するためにフジビュースタンドの裏側へ移動する。パンフレットを覗き込みながら着いて来るK山女史から、日本庭園はどれですか、安田伊左衛門像はどれですか、ミノル君はどこですか、などとしつこく聞かれるのを、いま改装中とか、亡くなったとか、適当に誤魔化しながらパドックへと誘導する。

そこそこに混雑しているし、少しでも馬に近いほうが良いと思ったので、掲示板側に回ってパドックに対峙する。考えてみれば逆光になるのだったが、まだ陽が高いのであまり気にならない。正面に聳えるフジビュースタンドの屋根は、つり橋のようにいくつかのワイヤーが張られているね。なんとなくゴシック建築のようでもあるね。そんな話をK山女史とする。カゴシマ氏とK上氏は、それぞれに新聞を携えて競走馬の姿を眺めつつ、新聞紙に何か書き込んだりしているので、これはもう解説や補助を要しない様子。ふとK山女史が、目で安田伊左衛門像を探しながら 「パドックって何を見るんですか?」 と関西風のイントネーションで聞いてくるので、心の中で深〜く頷きつつ 「爪は良くみたほうが良いね。ときどき爪先がこんな風に割れたヤツがいるのだけれど」 とヴァルカン式挨拶みたいに手を広げてみせて 「……それは牛だから」 というネタを披露する。ぜんぜん面白くない。

K山女史は、その後もオレさまが最初に差し上げた東スポには目もくれず、もっぱらレーシングプログラムのほうを熱心に読んでいた。おかしな馬名を見つけては 「ネタの宝庫ですねえ」 と感心してみたり。うーむ。それなりに見どころがある。しかもそうして、8Rのメルシーエイタムを含め、気に入った馬名を選んで複勝を買う方式で4鞍中3鞍も的中させたのである。うーむ。

8Rの締め切り間際にC春女史とM元氏が合流。とりあえず馬券を買いたいというので、慌ててマークカードを渡し、競馬新聞を見せながら買い方を説明する。K山女史に見捨てられた東スポが大活躍しておる。1頭だけ選ぶ買い方と、2頭を選ぶ買い方と、3頭を選ぶ買い方があって、順番にこだわるものと、順番にこだわらないものがあって、それからうわー ”ワイド” というのがあって、”枠” というのもあってうわー、などと付け焼刃で慌てながら適当に説明してみるうちに、C春女史は間に合ったが、M元氏のほうは間に合わず。レース観戦後、K山女史が的中させた複勝の配当を気にしつつ、再び全員を9Rのパドックへ案内する。新聞の予想を確かめながら10倍にはなると思うよと期待させておきながら、確定後の配当は860円だった。それでもK山女史は素直に喜んでくれている。まあ、あれだ。僕も嬉しい。

9Rのパドックで、再びC春女史を相手に、いいね爪先の割れたヤツは買わないこと……というネタを披露してまたすべる。はい。もしもし。はい。ええ、競馬場へスキーをしに来ました。はい。では失礼します。すり鉢状のパドックの形がネタを滑り易くしているのではないか。9Rを静かに観戦して仲良くハズレた後、内馬場に移動してみる。もう蹄音は諦めた。内馬場と聞いてK山女史がフアフア広場に行きたいとか言い出したが却下。バラ園に/バラの花咲く/何ごとの/不思議なけれど/と詠みつつ、こんなに寒いのにバラが咲いているのが何となく不思議。新しいオーロラビジョンが出来て初めて府中競馬場を訪れているわけだが、内馬場はしかしやや寂れたような印象を受ける。冬期だからかもしれないけれど、人の気配が少ないし、ラーメン屋のシャッターは閉まっているし、ターフビジョン付近の赤い敷石の隙間からは雑草が伸びている。塩野七生が 『ローマ人の物語』 の全巻のあちらこちらで、”敷石はすり減り、間には土砂がたまり、雑草が生えたあげくに静かに死んでいく” と現代のローマ街道の荒廃ぶりを再三嘆いているが、こんなに早く荒廃されてしまっては嘆く暇もない。淋しい気分で写真を1枚撮ってみる。内馬場はレース観戦には不向きと判断して、10Rの馬券を買うだけにして再びスタンドに戻ることにする。西側の通路はもの凄く殺風景な地下道で、いろいろな意味でなかなか出口に辿りつけない。しかも出たところで地方競馬の馬券売り場に迷い込んでしまったり。

10Rは、K山女史のガブリンの百円分の複勝と、K上氏の枠連が千円分的中。しかしK上氏のほうは当たってマイナスという状況。オレさまとカゴシマ氏はもちろん連敗街道爆走中。M元氏は3連複の1点買いばかりなのでもちろん的中にはほど遠い。木枯らし吹き敷くゴール前でコートの襟を立てたC春女史が、ふと 「意外と当たらないものですね」 とつぶやいた。だめだ。競馬の神様は本当にだめだ。天上にいるなら引き摺り降ろして今度こそとくとくと説教してやりたい。そもそもこういう日には武豊も関東に来ているべきではないか。ええ。いったいどうなっておるのか。

暗雲立ち込める府中競馬場。メインレースの馬券を買って、ゴール前でしばらくスタートを待っているときに、手すりの支柱が馬の首の形をしていることにカゴシマ氏が気がついて教えてくれた。愕然とする。さらに他のメンバーもあちらこちらで馬を象ったデザインを発見したと報告を重ねる。呆然とする。いったい、これまでに何度も足を運んできた競馬場で、自分は何を見てきたのか。数字と馬の名前がびっしり書き込まれた紙切ればかりを睨みつけて、天を仰いだり、地にひれ伏したり、そんなことばかりしていたのではないか。いたのである。そうして身辺に散りばめられた珠玉の職人技に全く気がつかないでいたとはなんたる盲目。なんたる無関心。なんたる、まあ、いいか。

メインレースでは、皆をビックリさせないように気をつけながら、後藤! と一瞬だけ小さく声を出す機会を得たが、すぐに無駄であることを悟って叫ぶ行為をやめ、静かに駆け抜けてゆく勝負服の背中を見送った。東スポ杯に/東スポの役立たず/何ごとの/不思議なけれど/……と、めちゃめちゃ字あまりの心境を表現してみる。ここで、C春女史、カゴシマ氏、K山女史、が馬券を的中させて、結局、この日ひとつも当てられなかったのはオレさまとM元氏だけとなったのだが、遅れてきたM元氏は3鞍しかやっていないので、立て続けに4鞍もハズしたのは、ツアーメンバー中、水先案内人であるオレさまただ一人ということになって、これはもうすぐにでも家に帰って暖かい毛布にくるまってパラパラマンガでも読みながらいつの間にか眠ってしまったりしてしまいたいくらいの心境なのに、「払い戻しの機械はどこにありますか」 と、オレでも滅多に近寄らない霊域の所在を、蒸気船に乗ってやって来たお雇い外国人教師みたいな気軽さで聞いてくる。しかたなく一緒に探してやり、しばらく待ち、それから京王線の改札方面に向かっていつのまにか綺麗に改装されている連絡通路を渡り、なぜかJRA女子職員一同に元気に見送られながら府中競馬場を離脱。京王線の駅まで渡りきったところに、黄金の馬の像アハルテケがあるのを見つけたカゴシマ氏が飛びついて写真を撮り出したので、自分も負けずに真似して撮る。他のメンバーも真似して撮る。知らないカップルの彼もポケットからデジカメを出して撮る。駅員も走ってきて撮る。タバコ屋の店主も灰皿を倒して撮りに来る。宇宙人もUFOから降りて撮る。ラスコーリニコフも斧を放り投げて撮る。織田信長明智光秀も矛を納めて撮る。シャアもアムロも凄い反射神経で撮る。ウィリアムテルもリンゴを乗せて撮る。皆集まって撮る。世界中の過去と未来からみんな集まってきて交互に黄金の馬の像を写真に撮り続けていく。

妄想を膨らませているうちに、ふと気が着くと皆はもう改札を済ませて、エンジン全開で青ランプを待っている新宿行きの急行電車に乗ろうとしている。遠くから手招きされたが、Suicaにチャージもしていない身なので、慌てて販売機で切符を買おうとポケットからマークカードを出したが 「新宿」という選択肢が無いことに気が動転したりする。同点のランナーがいま一塁に出て、累は末代まで及び、類は友を呼び、予備のガソリンも底をつき、月を旅路の友として。勿論その急行電車には乗れず、皆でゆっくり待って次の急行電車に乗って新宿まで移動。座れて良かったね、と何度も口に出しかけてやめる。

新宿西口駅周辺の居酒屋で反省会。2時間ほど飲んですっかり酔ったのち、素面のK山女史が本屋に行きたいとか素晴らしい提案をするので、よしジュンク堂へ行こうと同調して、イルミネーション謎めく異世界のなかを南口の高島屋まで歩いて行ってみるがジュンク堂はここではなかったかと到着してから気づいて、あらためてK上氏に携帯電話で所在を調べてもらって、新宿東口三越へ移動。あこがれのジュンク堂であったが、酒気を殺すことに精一杯で、30分ほど神妙に書棚の回廊を眺め歩いたのちやっと閉店を迎えて解散。