深夜2時、就寝してから約1時間で目を覚ます。部屋の灯りを点けたときに妻が目を細めながら、ナニカ、と問うてきたので、蚊ダ、と答えてから呼吸を整え意識を集中する。昨日の夜に打ち殺したヤツと同じ羽音なので、一瞬 「ヤツか?」 と思ったりもしたが、まさか死んだものが生き返りはしないだろう。おおかた、ヤツの息子か、女房か、そいつが敵討ちにやってきた、まあそんなところだろう。一寸の虫にも五分の魂はあるということか、ヤツめ殊勝な家族をもったものだな。いいだろう、返り討ちにしてくれる。
目を閉じるくらいなら、最初から灯りなど点けなければよかったわけだが、とにかく座頭市シリーズを何本も観てきたオレさまである。こんなときにこそ成果を試さねばな。ゆっくりと目を閉じて、腰を沈め、小首を傾げつつ、よせてはかえす羽根の音に心を乗せる。ゆったりと羽音の振り子に揺られるうちに、我が魂は次第に宇宙との一体感を取り戻し、意識は無限の広がりに委ねられていく。これは巧妙な幻術だ。眠ってはならない。一瞬、冷たい殺気が閃いたような気がした。そこへめがけて抜き手を差し込み、全身全霊でピシャリとやった。手ごたえが無い。しかし同時に、読経のような羽音も消えた。オレさまの攻撃を交わすとはな。ククク。高笑いしてから再び寝床に就く。
次に目を覚ましたのは3時半頃だった。待っていたぞ。『礼記』 の曲礼に曰く、父の仇は共に天を戴かず兄弟の仇は兵に反らず交友の仇は国を同じくせずというからな、おまえを生かしたままではこちらも枕を高くして眠られぬ。さあ来い吸血鬼め。お前こそ血祭りにあげてやる。遠巻きによせる荒っぽい羽音に殺意の照準を合わせたまま、右拳はあごの先端に置き、左こぶしはやや脇を締め気味に顔面の前方に突き出す。肘を左脇下から離さない心構え。やや内角をえぐりこむように、ヤツが最接近するその瞬間を狙って、打つべしっ! ヴアン、と羽音が膨れ上がる。しまった。いまのはジャブの打ちかただった。打つべしっ! 打つべしっ! おっちゃん、ストレートはどうするんだ。右ストレートを教えてくれ。タオルケットを巻き上げて右に左に振り回し、枕を投げ、聖書を投げ、花瓶を投げ、フォークを投げ、手当たり次第に掴んだものを暗闇に投げつけて、肩で息をしながら電気を点けて入念に検分する。しかし、ヤツの死体はあがらなかった。うーむ。オレさまの攻撃を2度までも交わすとはな。
次に目を覚ましたのは4時半だった。そうだったな。これは殺し合いだったな。危うく気を緩めてしまうところだった。覚悟はとうにできている。おまえかオレかどちらかが消えなければこの戦いは終わらない。獅子は獲物を捉える際には二兎を追うものでも全力で一兎も得ずだ。さあこい。死ぬのが怖いか。怖いか。怖いのか。しかし、生きるにはそれ以上の覚悟が要るのだ。それをわかれせてやる。いまわからせてやる。右ストレートは、右拳に全体重をのせ、まっすぐ目標をぶちぬくように打つべし!だ。さあ安らかに眠らせてくれ、いや眠ってくれ、あれ、その、まあ、あれだ。まあ、いいか。
気が着けば外はすでに白んでいた。手を休めてカーテンを大きく引き開けてみると、半分開いた窓から冷たくやわらかな風がクチナシの香りとともに吹き込んでくる。安らいでゆくのがわかる。心地よい疲労感を思い出した手足が、目に見えぬ天使のエスコートを受けながら、ベッドに広がる冷たいシーツの上に柔らかに横たえられていく。朦朧とする意識の此岸で、遠ざかりゆくあの羽音に耳を澄ませながら、もう二度と会うことはないだろうと懐かしく思ったりした。
6時半起床。妻はやや不機嫌で、自分も確かに寝不足のはずだったが、しかし思ったほどの脱力感はない。いつものように出社して、退社するまでに5人の後輩や同僚に、夜来の死闘のことを話して聞かせた。少し残業したのち帰宅し、夕食を済ませたらそのまま眠くなった。妻に起こされて寝室まで移動。就寝。