同じフロアで働いているS田さんという女性に、岡野玲子の 『妖魅変成夜話』 の第1巻〜第4巻をいただいた。古い本を整理中で同作品の貰い手を探されているという噂を聞いたので、昨日、初対面ながら勇気を出して申し入れたら、その場で快諾してくださったうえに、本日さっそく重いのに4冊とも職場に持ってきてくれたのである。じつにじつにじつにじつに有り難い。
本は本を呼ぶというか、常時携帯する2冊の文庫の他に、コミックとはいえ4冊の本を呑み込んだ鞄を持ち歩いていると、もっと欲しくなってくるようで、会社の帰りにLIBROに寄ってまた文庫を2冊買ってしまう。すでに常ならぬ鞄の重さに音を上げつつあるにかかわらず、今月の小遣いで描く未来予想図もまだ混沌としているにかかわらず、やや高価な文庫を2冊も購入してしまったことへの後悔。これでも随分悩んだのである。1冊だけにしようかとか、いっそ買いたい本を買えるだけ買って自分も死のうかとか、数十分間にわたって悩み苦しんだのであるが、いずれにしても前から欲しいと思っていた本には違いないので、要するに定期発注みたいなものだと思うことにした。給料日を過ぎたばかりだったのが運命。

読書が楽しいからといって、どんなに健康で時間とお金があって好きなだけ読書していることが許されたとしても、たぶんその境遇を甘受することはないだろう。ままならぬ生活の合間にする読書だから楽しいのであり、自らの現在に照らし合わせつつ書物に記された世界を追体験していくことで読書の楽しみは幾許かの彩りを深めるのではないだろうか。

スーツを着た男性が、電車のなかで読むものというのは、日本経済新聞であったり、坂の上の雲であったり、R25であったり、モーニングであったり、モンテーニュであったり、Oracleチューニング入門であったり、携帯電話のマニュアルであったり、正法眼蔵であったり、フランス書院であったり、いろいろあって良いと思うのだが、たぶん 『赤毛のアン』 だけはまずいと思う。少なくとも外見はあまり若くは見えないスーツ姿の男性が満員電車のなかで読む本は 『赤毛のアン』 であってはならないと時代の何かが要請しているような気がする。そのことはよく感じているつもりなのだが、にもかかわらず、この数日というもの自分はその禁忌を犯している。おかげで超満員であるにもかかわらず通勤電車内では自分の周囲30cm以内には立つ人がいなくて助かっている。自分だって、密着して立っている目の前のサラリーマンが 『赤毛のアン』 を読んでいたら貧血を起こして座り込んでしまうだろう。

赤毛のアン』 は子供向けの本、あるいは夢見がちな乙女が読むべき本であるような印象が強いかも知れないが、大人には大人なりのアプローチの仕方があって、とりわけマリラやマシュウの心中に深い共感を覚える読者がいるとすればそれは間違いなく大人の立場にある人々で、しかも幾分の年輪を重ねた大人にこそその傾向が強いのに違いなく、つまりスーツを着た外見はあまり若くは見えない男性が通勤電車のなかで読んでも充分に感動を味わうことのできる場面の連続だし、ときに涙ぐんでしまってその日一日は仕事にならないこともあるような、そういう類の名作であることも事実なのである。かのマークトウェインも70歳過ぎに読んで絶賛しているわけだしな。でも自分はなるたけ電車のなかで読むのはやめようかなとも思う。