”かりにお前自身、究極においては人々を幸福にし、最期には人々に平和と安らぎを与える目的で、人類の運命という建物を作ると仮定してごらん、ただそのためにはどうしても必然的に、せいぜいたった一人かそこらのちっぽけな存在を、たとえば例の小さな拳で胸をたたいて泣いた子供を苦しめなければならない、そしてその子の償われぬ涙の上に建物の土台を据えねばならないとしたら、お前はそういう条件で建築家になることを承諾するだろうか、答えてくれ、嘘をつかずに!”   (『カラマーゾフの兄弟ドストエフスキー原卓也訳)

イワン・カラマーゾフが自作の叙事詩 『大審問官』 を弟のアリョーシャに語って聞かせる、その少し前に出てくるイワンの台詞である。”例の子供”というのは、これより以前の会話で説明される、母親から虐待を受ける少女のことであるが、イワンはその他にも沢山の子供たちの受難を例に挙げて、自分がなぜ《この世界を認めないか》を聖職者である弟に説明しようとする。
それにしても、どうやら近頃の自分は言いたい事が沢山あるらしい。ときどき、このイワンの問いかけが、自分の耳元に囁かれてくるような出来事に逢う。今朝みた新聞の1面に、携帯電話の利用料金の高額請求トラブルの記事が載っていた。請求額が100万円を超すというケースがあるらしい。悲しいのは、これが今に始まったことではないという点である。数年前からこうしたトラブルが絶えない状況でありながら、業者はなぜ基本料金のあり方そのものを改めようとしないのだろうか。利用者の確認不足だの、業者の説明不十分だの、責任がどこにあるかという問題が取り沙汰されるが、そもそも何のための携帯電話なのかと考えさせられる。生活を便利にするためのツールが、生活を脅かすようであってはならないのではないだろうか。100万円の通話料金というのは、一般市民の生活感覚では考えられない金額である。若い人であれば人生そのものの危機を招きかねない。せめて5万円くらいに達したところで業者から確認を促すような通知があっても良かったはずである。一部にはそうしたサービスもあるらしいが、それがオプションである必然性はないと思う。平気で100万円の請求書を切る業者は、実際どのような利用イメージを描いているのだろうか。もしも100万円の金額が携帯電話の通話サービス料金として妥当な金額であると業者が感じているのなら、間違いなく携帯電話は庶民が持つべき道具ではないのである。加入手続き時に職業や可処分所得や利用目的などの厳しい審査が必要になる。もしも、公共サービスとして遍く一般市民に普及させたいと考えているのであれば、せめて ”安全である” という程度の前提条件を見失わないで欲しい。
クレジットカード被害を自己責任という言葉で片付ける神経や、過密ダイヤが遠因して引き起こされる列車事故や、コストとの兼ね合いで特定危険部位除去の管理に妥協を強いられる牛肉輸入問題や、未来のイラク国民のために現在のイラク国民には犠牲になってもらおうというようなアメリカの論理や、日本国内でも毎年6千人以上もの人が交通事故で死に続けているという救いようの無い事実や、そうした不幸のいちいちが、両手の指が10本という中途半端な数であることや、円周率が我々の算法では割り切れないことがもたらす微かな不安と同じように、我々人類の発生それ自体への疑いを深め続けてやまないのである。この不安はどうにかして払拭されなければならない。
……と思う今日この頃なので、どうやら近頃の自分は言いたい事が沢山あるらしい。まるであいうえおを習い覚えた3歳児である。