大急ぎで駆け込んでみたら、据え置かれたトイレットペーパーのロールがまるごとびしょ濡れだったという夢を観た。夢の中でまで腹を立てている。インド料理みたいにカリカリしながら出社。

ベーコンみたいにカリカリしながら深夜に帰宅してみれば、妻がNHK 『プロフェッショナル』 を録画しておいたぜという。もう夜も遅いし、それほど一所懸命に観たいというわけでもないから、そのうち観せていただきませうぞと礼だけ述べたら、ゲストが宮崎駿だというのでやはりいま再生してみることにする。なぜ気が変わったかと言うと……と妻に説明し始めて、ふとブログの効用に気がついたり。こうしていちいち自分の考えなり言い分けなりを、言葉に表してみようとする習慣が身につくやも知れず。

なぜ宮崎駿なら良いかというと、彼の発言は、その作品にも違わずに錬度が高いと感じられるからである。いつだったか、やはりジブリアニメの製作現場 (『もののけ姫』 だったと思う)を紹介する番組のなかで、宮崎駿がこんなことを言っていた。
”人間の力ではどうすることもできない事態が突然やってきてすべてを押し流してしまうこともある”
宮崎アニメのクライマックスには、確かにこんな場面を描いたものがよく見られる。大海嘯とか巨神兵とか、”バルス” とか、ダイダラボッチとかな。これは数多の製作経験に基づいて築きあげられた技法の一つなのかも知れないし、実体験から生まれた人生哲学なのかも知れないが、彼がこんな風に様々な機会に漏れ聞かせる言葉の数々が、実際に彼の作品の中にも投影されているものだということは明らかである。当たり前といえば、当たり前な話なのだが。だから映画が成功している以上、彼の言葉にも信頼がおけるように思えてしまうのである。いや本来は、鑑賞者にとっては、作品こそが作者であり作者の全てであるべきことは充分頭で理解してはいるつもりなのだが、まあ、いいか。

さらに言えば、見応えのある映画とは、総じてその作品中に何らかの葛藤が認められるものではないかと思う。作品鑑賞は製作者と鑑賞者の対話である。作る側と鑑賞する側が互いに誠実であれば、結果的に有意義な対話が生まれる。ここでいう誠実さとは必ずしも善良さを意味するものでは勿論ないわけで、見えないところで重ねられてきた自問自答というか、要するに 「葛藤」 の大きさなのである。アニメーターとしての宮崎駿は、その葛藤が人一倍激しいのではないだろうか。面白い映画とはどのようなものか、この少年は何を見ているのか、出会いとはどうあるべきなのか、何が奪うのか、公平であるべきか不公平であるべきか、飛びたい空とはどんな空か、そうした問題の一つ一つに何らかの回答を試みようと苦しみつつ描き重ねて初めて、子供たちに喜ばれる映画が生まれるのだと彼は確信しているのに違いない。
”テーマが簡単に抜き出せるものはすべていかがわしい”
という彼の発言は、来夏公開 『崖の下のポニョ』 への期待を支える梁の太さに充分足るものだと思う。