岩波新書 『数に強くなる』 読了。平易で軽妙な文章だが、内容はじつに興味深いものだった。「6%の原理」 など感動的でさえである。とりあえず書いておかねばならぬ、という著者の焦燥さえ伝わってくるようだ。他にも、オレさまが携帯電話や腕時計を持たぬ理由などもこの本の中で説明されているような気がしたり。叶うものなら一度お会いしてゆっくりとお話を伺ってみたいものだ。

数年前から、老いるとはどういうことか、若さとは何か、というようなことで考え込む時間が増えた。自分の考えでは、老いることとは慣れることである。慣れることによって風景の省略が進み、言葉で伐り出されたはずのディテールが逆にどんどんグルーピングされて、例えば、吸殻や石畳やマンホールの蓋やそのデザインなど路上のすべての存在は 「道」 としてまとめられ、仰ぎ見る植物は桜でも梅でも欅でもすべて 「木」 とまとめられ、往来を歩く子供も大人も 「人」、晴れても曇っても 「空」、満ちても欠けても 「月」、そんな風に五感がどんどん変化に反応しなくなっていく状態である。初めに言葉ありき、というように言葉によって構築され細分化されていた世界は、慣れてしまうことでたちまち色褪せ朽ち輪郭を失いそして言葉とともに消えていくのである。逆に子供の目は世界のあり様に慣れていないがゆえに、郵便ポストの形の違い、屋根瓦のうねりの違い、自動車の車種の違い、そうした小さな変化のすべてが新発見であり、ひとつひとつそれらに名前を求める。それゆえに忙しく常に全身全霊が活性化した状態にある。それが若さである。

自分はいつの頃からか、そうした若返りを求めるあまり、通勤途上で目にする看板の文字を丁寧に読んでみたり、横断歩道の白い横線の数などを数えてみたりするクセがついてしまったのだが、確かにやってみると、それが不毛なことだったり、馬鹿馬鹿しく感じられたりする例が沢山ある。以前に職場の置き傘の数を数えたことがあるが、意外に数えるのが難しかったので、いつか誰かが数えようとしているのを見かけたら、傘の突先のほうを数えるといい、と教えてやりたいと思っている。せいぜいその程度である。そんな時間の無駄遣いをしなくて済むように、こうした対象には 「看板」 とか 「横断歩道」 とか 「置き傘」 とか名前をつけて、見てみないふりをするのが大人の知恵なのかも知れない。

けれども、この不毛な作業のなかに小さな発見をすることもある。この2〜3日のあいだは、両国駅西口の自動改札機の台数を数えていたのだが、ゲートの数は10ヶ所、設置されている自動改札機の数は13台、出る側に面して矢印マーク(↑)が表示されたのが4台、入る側に面して表示されているのが7台だった。入る側が出る側よりも多いのは、あるいは鉄道会社としての ”千客万来” の期待の顕れなのかも知れないが、ホームという閉じられた空間を出て行く人数には限りがあるのに対して、駅の外の世界のほうが 1.75倍くらい広いことが理由なのだと思う。しかし、不思議なのは何度数えても、出る側と入る側を足した矢印の数(11個)が設置台数(13台)に合わないことだった。2台はどこへ消えてしまったのか。朝夕の通勤客にまぎれて改札を通る間際に数えようとするから慌てて数え間違えたのかも知れないし、人の少ない時間にゆっくり検めさせていただくほどのことでもないのだが、いずれ調べればわかるだろう、としたままで適当に納得する事態こそは何としても避けねばならない。そういうわけで、この2〜3日は通勤の都度に改札機の数を数え直し続けていたのであるが何度数えても同じなのである。そして本日、とうとう意を決して、夜22時を過ぎた人気の少ない改札口の周囲をうろうろしながら真相を突き止めることに成功した。おかげでぐっすり眠れそうだ。