午前中はブログの更新。へとへとになって午後からは外出。貸本屋に行って 『銃夢』 の続きを借りる。

新しい習慣が増えた。踏み切りを待つ間に百人一首を反復する習慣である。ポケットに一覧表を忍ばせて、上の句だけを読んで下の句を言い当てる作業を、思わせぶりに列車が通り過ぎる間、バイクがエンジンを蒸かしている間、知らないおじさんが舌打ちしている間に、黙々と続ける。楽しい。

電車に乗ったりしながら、古代の大戦について妄想を膨らませる。我々の先祖が、古代殷王朝に代表されるような ”異種” との戦いに勝利した直後においては、まだその支配構造は脆弱だったに違いない。それから後に現われた孔丘や、釈迦、ソクラテス、イエス等は地上に遺された異種たちの痕跡を徹底的に根絶すべく尽力した言わば戦士で、彼らはその死後においても多数の福音や経典をこしらえさせて、いまも異種的ミームを完全に殲滅せんがため戦い続けている。この地上は、未だにそうした戦時下にあるのかも知れない。真といい、善といい、美といい、我々が共通に喚起される感覚も、やはりイデオロギーのひとつに過ぎないのであって、すべての仕掛けをはずしてみたら、じつは我々人類もまた、思いもよらぬ地平で思い切り誤解をしながら暮らしていたことが判明するかも知れないのだ。

百人一首に一通り目を通したところで、次に何を暗記するかはもう決めてあるが誰にも言わずにおこうと思っているが、ところで般若心経というのは経典であって呪文ではないわけで、オレさま流に意訳してみれば冒頭部分は以下のようになる。

なあ、坊や。あー、よく聞きな。オレの兄貴っていう人はだな。修行時代に心底こう思ったらしいぜ。 ”この世の中に絶対なんてことはないもんだ” ってな。自分の目で見たり、耳で聞いたり、触ったりしたところで、ぜんぶ怪しいもんだって言うんだぜ。なあ、坊や。まあ、聞けよ。(以下省略)

まあ、いいか。続きは全部覚えてから訳すことにする。それにしても、経といい、祝詞といい、真言といい、すべて人間の言葉である。人間は言葉の上に言葉を塗り重ねて、目の前に横たわる世界に目に見えない無数の装飾を施してきた。そして自分たち自身をその装飾の虜となして言い知れぬ孤独を慰め続けてきたのかも知れない。

ファンタジックな物語 (物語はたいがいファンタジーなわけだが) にはよく高僧などが真言を諳んじて魔物を調伏したりする場面があったりするが、あれはある種の言葉責めみたいなものではないだろうかと思う。ときには考証の甘い作品もあったりして、修験者が怨霊相手に般若心経を唱えたりしている場面に出会ったときなどは(実際にそういう使い方も無きにしも非ずらしいが)、なんとも不思議な気分にさせられる。”なあ坊や……” って、確かに、あれをしつこく繰り返されたら、魔物もうんざりするかも知れないけれどな。親戚の叔父さんなんかにもよくそういう人がいる。

言葉責めなのだから文言は何だって良さそうだ。たいがい外国語だったりさもなくば古語だったりするし、モゴモゴ言うのが作法らしいから、周りで聞いている人には何を言っているのかよく分からないし、むしろ周りもできるだけ関わらずに済まそうとする。さあ魔物が現われた。少女の悲鳴OK。すかさず現われる一人の僧。錫杖をかいなに抱き、魔物から少女をかばいつつ厳かに真言を唱えはじめる。「いつまでゲームやってるの宿題は済んだのちゃんとご飯を食べなさいいい加減にしないとお父さんに叱ってもらいますからね……」 ところが魔物は意外と強敵、真言を聞かされても一向に怯む気配を見せない。少女は震えている。僧はさらに声を荒げてこの有り難い真言を繰り返す。「いつまでゲーム。やってるの。宿題は。済んだの。ちゃんと。ご飯を。食べなさい。いい加減に。しないと。お父さんに。叱ってもらいますからね!」 今度は効果があったようだ。魔物は微かに苦痛の表情を浮かべた。一人の念誦ではだめだ。さあ、少女も一緒に唱えるのだ。ええ、でも。怖がらずに、さあ。 「いつまでゲームやってるの。宿題は済んだの。ちゃんとご飯を食べなさい……」 ぐぅおああやめろ。唱えるのをやめろ。ぐぅああああああああああ