残業。帰りの電車のなかで、再びブログのタイトル変更について考える。
もとを質せばペーパーオーナーゲーム(POG)のファンだった当時の自分が、競馬開催のない平日をどのように過ごしているか、一途であればなおさら滑稽なのが人生であろうと確信しつつ、自分の生活を笑い飛ばす目的でつけ始めた記録である。ついでにWEB日記という形でインターネットに公開していくことにすれば、いくらか持続するかも知れないとも気が着いて、 『KEIBAのある生活』 というタイトルでホームページを開設した。この日記はそのコンテンツの一つである。POG日記という着想に続いて浮かんだ、この ”愛と忍耐と罵倒と反省の記録” というタイトルは、当時の自分にはとても得心のゆくもののような気がした。それはまさしく、POGファンの4態を表しているように思う。

「愛」 とはなにか。言わずもがなの指名馬への愛のことである。愛情こそがPOGファンの原動力なのである。ドラフトで指名した馬を、敬愛し、熱愛し、寵愛し、溺愛し、どこまでも肯定し続け、どこまでも追いかけ続けていく後ろ姿。自分の指名馬こそは秘密兵器であり、未完の大器であり、突然変異の天才肌であると、負けても負けても信じ続けるのがペーパーオーナーである。愛なくして夏から春までのPOGの1年間をハイテンションで過ごすことは不可能なのだ。では 「忍耐」 とはなにか。これこそがPOGのすべてである。指名馬の未入厩に耐え、故障放牧に耐え、直前の回避に耐え、一杯に追う内1馬身遅れに耐え、雨に耐え、雪に耐え、出遅れに耐え、曲がりきれないコーナーに耐え、ゴール前失速に耐え、予想紙や関係者の心ないコメントに耐え、他のペーパーオーナーの有頂天に耐え、ひたすら耐え難きを耐える後ろ姿。POGのすべてが耐え忍ぶことで出来ているのである。では 「罵倒」 とはなにか。すべてのゴール前の事物に対する憎悪である。ペーパーオーナーであるがゆえに、馬も騎手も競馬ファンもオーロラビジョンも確定の赤ランプも赤ペンも新聞もすべてが罵り倒してやりたい対象に思える機会はどんどん増えていく。馬をも身をも恨みざらましである。もともと人間の器が小さいうえに、耐えねばならない不幸は次から次へと後を絶たないため、悲しみは度々臨界値を超え、忍耐のダムは常にあっさりと決壊し、心の叫びのつもりがいとも簡単に口をついて出てしまう後ろ姿である。それは苦であるとお釈迦様もおっしゃっている。そして 「反省」 とはなにか。己の愚かさに気づき、たかがPOGなのだからもっとクールでドライにならねばと、テレビやモニタやラジオの前で芝より深く反省する後ろ姿である。とくに日曜日の夕方5時頃に深く反省している人がいたらそのひとはPOGファン(少なくとも不遇な競馬ファン)である可能性が高いのである。

『愛と忍耐と罵倒と反省の記録』 は、開設当初から現在に至るまでのあいだ、基本的に毎日欠かさず記録されてきた。主題が ”KEIBAのある生活” なので、競馬に関係のない生活の部分も記録されている。自分のイメージでは、競馬ファンの暮らしぶりとは、宅急便の受領サインに赤ペンを持ち出したり、食卓の鍋敷きが 「東スポ」 だったり、電話の横のメモ用紙がマークカードだったり、という感じで、どれだけ日常生活のなかに ”競馬” が溶け込んでしまっているかを細かいところで確認していこうと思っていた。サイト開設からしばらくが過ぎたある年に、JRAが ”競馬のある生活” というキャッチコピーでCMを始めたときには、本気で腹を立てかけたりもしたが、すぐに、JRAの ”競馬のある生活” の捉え方が自分のイメージとはだいぶ違っていることが分かったので、それきりCMには関心がなくなった。

そんな風にしつつ8年余りが経過し、なんとなく振り返ってみれば、いまや自分を取り囲むあらゆる事物は変化してしまっていることに気が着いた。自分の日々の生活リズムも変わったし、インターネットの事情も変わった。競馬やPOGの楽しみ方も、個人的にはもとより、一般的にみても大きく変わったように思う。とにかく、このWEB日記の中に記録される出来事の数々はもはや ”KEIBAのある生活” とは呼べないものとなってしまったことが、どうでも良いコンテンツのわりには非常に重大な問題として目の前に横たわっている。

昨年夏あたりから、このブログのタイトルを変えねばと真剣に思いはじめている。もはやPOG指名馬への愛情は倦怠し、忍耐は挫け、罵倒する相手も目の前からいなくなった。いや、そもそも忍耐とか、罵倒とか、いったい現在の自分が他者に対して、いかほどの忍耐を強いられているのか、どれほど罵倒できるほどの権利を有しているのか、その点に思い至ってしまうと、これはもう一刻も早く改題してしまわなければ身の危険でさえあるように思われてくる。むしろブログなどやめてしまえばよかったのかも知れないが、”ブログのない生活” はもう8年も過去のものとなってしまった。やめられない ”弱さ” が自分のなかにある。
こうしてもう、半年も悩み続けながら新しいタイトルを見つけ出せないままでいる。あるいは、それで正しいのかも知れないとも思い始めている。日記に、つまり人生にタイトルなどつけようがないではないかと、スピーカからもれ出づる車掌の声も言っているような気がする。