どうやら寝坊したらしい。時計を見れば、もはやどうあがいても定時には出社できない時刻。
マルクス・アウレリウス帝の 『自省録』 を拾い読みしながら会社に向かう。

”明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ。」 自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果して宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。” (マルクス・アウレリウス 『自省録』 第5章第1節より 神谷美恵子訳、岩波文庫

うーむ。マルクス・アウレリウス帝が忙しい中、わざわざこうした貴重な反省を書き残したのは、ここにいるこんな二千年後の愚者のためではない。先人の言葉をただ聞いているだけで何も変わらない自分がこの本を読むことは大いなる宇宙エネルギーの無駄遣いではないだろうか。これはもっと別の、打てば響くような学習能力のある人間が読んで参考にするべき書物なのである。どんな古典も、資格の無い者が盗み読むことは罪であるとさえ思われてくる。幾冊の書物を引いて、何人の先人たちの尊い言葉を角膜に写し取ろうとも、我が体内のどこかにあるはずと思い込んだ賢人回路は一向に発動しない。あいかわらず、酒を飲んで方法論に拘泥したり、惰眠を貪ったりしてばかりである。”馬の耳に念仏” という言葉が、これほど激しく冷たく胸を貫いたことはない。