そういうわけで、寒さに打ち震えながら 『肉食の思想』 を読む。この本を誰かに勧めるときには、とにかく第2章までは黙って読んでみよと伝えようと思う。

いつだったか、バラエティ番組に出演していた外国人タレントが、日本のどこかの民家で飼っている柴犬の名前を訊ねたら、”ジョン” と答えたのを聞いて、「”ジョン”というのは大統領もいる立派な名前で犬につけるのはおかしい」 と、結構本気で怒っていたことがあった。当時は 「なぜそこまで怒るのか」 と訝しく思ったものだったが、この本を読んで納得した。キリスト教の天国には動物がいないという理屈にも頷ける。

まずもって肉を食べるという行為が問題なのであるが、food の問題はやはり 風土 の問題なのである。この本の冒頭、2章に亘ってその食肉習慣の背景が説明される。日本の水稲栽培に比べてみると、ヨーロッパの穀物収穫効率の悪さは歴然なのである。ヨーロッパの風土では穀類の収穫効率があまり良くないため牧畜の習慣が生じ、肉食も穀物も分け隔てなく摂取せざるを得なかったため、まずヨーロッパには 「主食」 という考え方がないらしい。そのことはさておき。

それでも、古代ローマ時代の地中海世界あたりでは小麦が 「主食」 とされていたと思われるので、例の 「人はパンのみにて生くるにあらず」 という聖書の言葉は、やはり 「肉も食べるよね?」 と言おうとしたわけではなかったのだろうということは前後の文脈でも明らかなわけだが、いやしかし、旧訳に記されたカインとアベルの事件に象徴される狩猟民族性善説の件もあるわけだし、あるいはイエスも最初は 「肉も食べてるし」 と言いかけたのではないかと疑ってみたくなったり。少なくともこの言葉を初めて聞いたガリア人やゲルマン人は 「肉も食べるからな」 と心の中で頷きながらキリスト教を受け容れたのではないかと想像してみたり。まあ、いいか。

ヨーロッパは穀物栽培に不適切な風土 → 肉食の習慣 → 人間と動物との区別 → 宗教による理論武装 → 近親婚や自殺やその他生活習慣への戒め → キリスト教徒とそれ以外の人々との区別 → 階層意識や人種差別 → 階級闘争マルクス主義……といったあたりまで読んだ。ここでマルクスユダヤ人であることの意味深さにも気づかされる。なかなか。ここまでくると、食生活が根本的に異なる日本人がいくら西欧の真似をしても、彼等と同化することなど決してあり得ないのだと、いやでも思い知らされることになる。ちなみに、ここから仏教の定着と水稲栽培とが非常に深い関係にあることも容易に想像される。当たり前だが西洋人が仏教を理解しようとするならば何よりもまず食生活を改めねばならない。

日本人に限らず、穀物を主食にする人々は観念や精神によって論理的に人間性を追求し、肉食の習慣がある人々は慣習やルールによって物理的に人間性を追求する傾向にあるらしい。日本でいう 「武士は食わねど高楊枝」 という負け惜しみが言える階級の存在は、ヨーロッパでは考えられないことのようである。