年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思いもなし(古今集藤原良房

けっこう早起きをしたのだが、だらだらだらしていて家を出る頃には10時を過ぎていた。ばたばたばたしつつ上野の東京国立博物館へ、長年恋焦がれた伊藤若冲の絵画展を観にいく。今朝のNHK 『新日曜美術館』 の影響か、平成館はなかなか混雑していた。

かつてリッチーブラックモアは 「とにかく強く弾かねばならない」 と言った。人間の聴覚の範囲や他の楽器の音域を考えれば、小さな音を聴かせるには限界があり、したがって音色に幅を持たせたければ大きいほうの音をしっかり出せる技量が必要となってくるのである。一般に日本絵画の美しさは 「省略」 の技術にあるとされるが、余白を余白として際立たせるためには、その究極の 「省略」 に匹敵するだけの表現力のある具体性、豊かで高度な写生技術が要求されるのだ。歴代の日本の画家たちは、ひたすら写生を重んじ、白紙の上に自然物を彫りおこす技術に関しては命を削るほどにも真摯に取り組んできた。多くの日本画家が陰影を描かないできたのも、対象物以外のもの(例えば光線とか)を介入させることで対象物の姿を誤魔化すことが許されないからなのだ(たぶん)。

ときにその激しい写生への思い入れが、画家をしてある種の宗教家のごとく振舞わしめることもある。精進潔斎してみたり(本当か?)、女色を絶ってみたり(本当か?)、古寺巡礼に出てみたり(本当か?)、自国の文化の特異性を再認識し始めた明治期にもなると、いよいよ日本画の画面には霊性だの神性だのが見え隠れし始めた。フェノロサ文人画を認めなかったのは、文人画家たちの写生に対する信仰が、彼の目には不十分と映ったからかも知れない。しかし文人画には、瞬間の場面を活写するという、これまた高度な写実能力が求められていたわけなのだが、なにしろ西洋人ときたら、荘厳なものの内にしか神の姿を見出すことができないからな(と断定してみる)。

伊藤若冲の描く絵は、そういう画道を追求するかのごとき宗教家達の作品に比べると、いささか霊性に欠けると評されることがある。それは彼が、いわば私度僧のような形で日本画教の世界に入門したからなのではないかと思う。異端だから認められないような。けれども、彼こそが写生画の開拓者なのであり、彼こそが写実教の教祖であり、彼こそは日本画壇に異彩を放つ弘法大師空海様兼リッチーブラックモアに他ならないのである(意味不明)。

たとえば 『紫陽花双鶏図』 を見れば良い。この絢爛豪華な細密画は、鑑賞する者に何を語りかけてくるか。こんなにゴージャスな鶏が必要なのでしょうか。この紫陽花は、たぶん紫陽花なのだと思うのだけれど、私が愛した紫陽花とは似ても似つかない。けれども確かに紫陽花なのであり、それはいうなれば私のなかにある紫陽花をイメージ化するための補正値をすっかり取り除いた結果の紫陽花だ。この画家は、このときの気分で、ただこんな風に描きたかっただけなのではないか。これは確かに優れた画だが、絵を描くためだけに描かれた、いわば画家本人の快楽のために描かれた絵なのではないか。

あるいは 『花鳥人物図屏風』 を見れば良い。とてもシンプルにまとまっている。美しくデフォルメされている。これはまさに商業デザインだ。不特定多数に向けて何かを宣伝しているようだが、私個人に対して何かを語ろうとはしていないようだ。「こんな図もできました」 と地下鉄の駅のホームに冷たく貼り付けてあるべきものだ。しかもこの画家はひたすらに画面だけを見つめている。

しかし間違いなく、彼の描写力は鬼神のごとくであり、彼の独創性は他の追随を赦さない。けれどもそれは、絵画するための絵画なのである。この人にとって鶏とは何か。鶴とは何か。子犬とは、雀とは、オタマジャクシとは何なのか。彼の絵の前にいると、そのことを嫉妬を交えさえして考えずにはいられない。恐らく彼には全てがただのモチーフなのである。そしてオレさまは、そんなパラノイア伊藤若冲が好きなのである。「動植綵絵」 シリーズなど本当にたまらなく好きなのだ。無数の犬とか無数の雀とか無数のオタマジャクシを描かずにいられない若冲が好きなのだ。

ところで、今回の展覧会の主役ともいうべき 『鳥獣花木図屏風』 であるが、オレさまはどうもこの桝目描きには不審を抱いている。1つの桝目のなかに複数の色彩を不規則に混在させているので、いわゆる ”ドット絵” にはならないし、また、もしも大きな画面に展開するための設計図だとしたら、方眼の数がやけに多すぎる。確かに若冲には、唐沢なをきとか、筒井康隆にも似た、新表現への飽くなき探究精神を強く感じるのだが、この桝目描き技法への取り組み方に関しては、あえて 「らしくない」 と言ってみたくなる。

そういうわけで、若冲の絵をすっかり堪能させてもらったわけだが、他にも応挙の 『赤壁図』 とか、酒井抱一の 『十二か月花鳥図』 とか、持って帰る方法はないかと絵の前で随分悩んだ。それから、特筆すべきは抱一の弟子で鈴木其一という画家の絵が大層よく見えた。発見だ、と思ったのだが、もしかしたら単にプライス氏のセンスの賜物なのかも知れない。

2時間程度の鑑賞時間を経て、妻と二人で屋外の喫茶店でコーヒーなど飲み、さらに居酒屋でビールなど飲んで帰ってくる。