午前中は猛暑というべき激しい晴天だった。机のうえでへたばっているサボテンを 「サボっテンじゃねい」 と叱りつけつつ、妻は熱帯域と化したベランダに鉢植えを放り出した。それから末世を憂う興福寺の阿修羅にも似た表情で、眉根をひそめ六本の腕をフル稼働させながら洗濯物を手際よく干しはじめる。オレさまはうんうん魘されているパソコンの体温を気にしつつ、数名の知人に宛ててメールを発信したり、変わり映えのしない日常を日記に整理したりしていた。

午後から、俄かに雲行きが怪しくなった。ゴロゴロと遠方に神鳴りが聞こえはじめた。

 「雨ふれ。涼しくなれ」

と妻が西空に話しかけると、じきに血のような大粒の雨が静かにしたたり落ちてきた。

乾いたアスファルトに反撃を赦さぬほどに、むしろ地表を穿つ勢いで雨はどんどん勢力を増していく。稲妻が勇ましく光る。轟音が響きわたる。地表の温度がぐんぐん下がっていく。妻は完全に満足して、むしろ不安を隠すように歌を歌い始めた。終焉を飾る歌である。終焉を飾る歌は必ず明るい歌でなければならない。天使が悪魔と手を繋いで明るく笑いながら地上に裁きを下すのだ。
ほら彼らの笑い声が聞こえてくる。妻の声に似ているようだ。なあ扇風機、おまえもそう思うだろう。扇風機は首を振っている。見よ人類の涙が止め処なく地表に染みていく。見よ天使の閃光と悪魔の轟音が代わる代わる地上に堕とされる。その周期は徐々に短くなってきている。ほら彼らの笑い声が近づいてきた。いよいよおまえの番だ。もはや逃れる術はない。悔い改めてももう遅い。おまえの罪は確定した。それだけでも有り難く思うがいい。その瞬間、天使と悪魔が手をつないでもの凄い勢いでオレさまの脳髄に飛び込んできた。妻がぎゃと叫んだ。パソコンが消えて、扇風機も死んだ。

そして静寂がおとずれた。遠ざかっていく雨音と天使と悪魔、それらはすでに過去のフィルタに覆われていた。扇風機が死んで胸に熱いものが込み上げてくる。パソコンが死んで目の前が真っ暗になった。電話機もついに物言わぬ屍となった。冷蔵庫も死んで冷たくなっている。炊飯器だけはまだ暖かい、どうやら死んでまだ間もないようだ。妻も歌うのをやめた。完全に停電である。良かった。改造人間の手術中でなくて本当に良かった。

13時30分を過ぎた頃から雨があがって陽が射してきたが、停電はいつまでも停電のままだった。静かだった。これが映画ならそろそろスタッフロールが上がってくる頃だが、代わりに向かいの木村さんが汗を拭きながら玄関を開けて出てきた。暑さに負けてじっとしていられなくなったに違いない。オレさまも出て行く。お互いに、停まってますよね、と確認しあう。角の山田さんもサンダルをつっかけてやってきた。彼が東京電力に連絡してくれたらしい。お礼を言って、三者それぞれに自宅にもどる。

しばらくすると、こんどは隣の鈴木さんが、うちの前でしきりに呼び鈴を押しはじめたので、苦笑しながら出て行って 「鳴りませんよ」 と教えて差し上げる。ああそうか、と笑いながら、東京電力に電話してみたが全然つながらないんですよという。山田さんが連絡してくれたことを伝える。ふと、道路を隔てた向こうの区域でも美人の母子連れが外に出てうろうろしているので、ハイヤーを待っているかも知れないぜ、と思いながら近づいていって 「そちらのほうもですか」 と声をかける。ええ停電ですと母親が答えると、小さな娘がその横でまた 「停電なの」 と繰り返す。停電だね、とオレさまも繰り返す。

14時過ぎに、また角の山田さんがやってきて、うちの前で呼び鈴を押しはじめたので苦笑しながら出て行く。 「鳴りませんよ」 と教えてさしあげると、ああそうか、と笑いながら、東京電力からこちらに向かっているとの連絡があったことを教えてくれた。復旧時間の見込みが立つのは現場を見てからになるだろうが、確実に復旧に向かっていると知るだけでもうひと安心な気分である。陽射しがもどり、そよ風が優しく吹いて、鳥の声が聞こえてくる。いま自分は、”電気のない生活” の無料体験コースを数時間だけ体験しているのだなあ。ああ、パソコンがやりたいなあ。

気がつくと妻ともども昼寝していた。15時過ぎに目が覚める。電源いまだ復旧せず。腕を組んで漢詩にしてみる。日照及昼過迄/黒雲俄覆天空/雨激堕穿大地/落雷而落電源/晴天輝陽燦燦/隣人呼NTT/電源未復旧也、という感じ。
所用のため外出することにする。突然何が動き出すかわからないので、妻には電源が復旧するまでは自宅に待機するようにと厳命して家を出る。山田さん宅の前を通り過ぎると、新しいエアコンの設置工事をしていた。なんだか可笑しい。とり急ぎ貸本屋へ行って 『最終兵器彼女』 『東京大学物語』 『あした天気になあれ』 の続きを2冊ずつ借りる。停電なんですよ、と自慢げに店長に話し、いかにもの凄い雷雨を体験したかをお互いに競い合う。GEOにも寄って 『TRICK』 と 『ウルトラQ』 のビデオを1本ずつ借りる。ああ我がレンタル人生よ。

18時頃帰宅。妻はいなくなっていた。電源が復旧したのか。あるいは暑さに耐えられず出て行ったか。可哀想なことをした。とりあえず冷蔵庫を開けてみると、氷の魔女が現われてオレさまの頬を冷たく撫でた。どうやら電源は復活したらしい。ドキドキしながらパソコンの電源を上げてみる。ちゃんと起動し始めている。ありがとう、ありがとう、マウスを両手で握り締めながら感謝する。しかしながら、すべてが復旧できたわけではなかった。電話がつながらない。十年ほど前にも落雷で電話が壊れたことがあるので、いちばん危ないと予想していたのだが、どうやら今回もやられてしまったようだ。はっとして、パソコンのほうへ向き直り、慌ててインターネットに繋いでみる。ぶつぶつ言ってるページには、ちゃんとアクセスできる。ほっとする。電話回線には問題がないらしい。電話機自体が故障したようだ。面倒なことになった。

スポーツクラブへ行くと、妻がマットの上でぼんやりストレッチをしていた。お互いに顔を見合わせながら笑顔を交わす。明日は電話機を買いに行くことにして、スポーツクラブのロビーで待ち合わせ、回転寿司へ行ってビールなど飲んで帰ってくる。