朝からトーンあがらず。『うつうつひでお日記』 をベッドのなかで読む。なんだか同じような生活をしている。実は過酷な彼の毎日に、砂糖とミルクとバニラと醤油を加えて缶に詰めれば、ほぼオレさまの日常ができあがりそうである。毎日欠かさずに埋めなくては気がすまないところや、内向きなところなど、日記へのスタンスにも共感できる。オレさまの日記は、おそらく吾妻派(ていうかその源流はたぶん筒井康隆)に仕方なく分類されるだろう。それにしても、不安に襲われたときの内面を描いたコマは、簡潔だがとても的確にイメージを描き出しているように思う。よくもそんな妄想と付き合いながら細かな公開絵日記を描き続けられているものである。吾妻ひでおは凄い。

『ふたりと5人』 が少年チャンピオンに連載されていた頃にはあまり興味を抱かなかったが、1995年の夏に10年ぶりに刊行された 『Oh!アヅマ』 とかいう単行本を読んだのがきっかけで、オレさまはたちまち吾妻ひでおの大ファンに変身し、過去の作品を買い漁って読み直した。もしかすると、80年代以降に発生したすべての文科系女子の表象は、吾妻ひでお描く美少女の型のいずれかに必ず分類可能なのではないだろうかという妄想に、それ以来とらわれてさえいる。なにしろ、それらのイメージは基本的にマニアックなすべての男子の胸中において常に密かに希求されてきたはずで、そうした電波を累代の文科系女子達は敏感にキャッチし続けた挙句に、無意識のうちか意識してなのか、そのニーズに応えようとしてさまざまな場所で表現を重ねてきたのに違いないのである。ななこ、ドンちゃん、まゆちゃん、るいちゃん、(亜素胡素子もか?)、彼女たちの仕草や思考パタンを記憶したミームは、テレビ局で、アニメ製作スタジオで、CM製作現場で、劇場で、小さな花屋で、アクティヴな文科系女子達によっていまも複写転記されつつあるに違いない。ところで、文科系女子と理科系女子とは、むしろナウシカクシャナのような関係にあるのではないかとたったいま思いついたのだが、まあそれはそれでおいといて。そうはいっても、実際にはそんな典型に当て嵌められる女性など1人としてありはしないわけで、せいぜいイメージはコスチュームとして纏うだけのものであって、その衣装は、確かに内部の開示を求める誠実な相手に対してのみ、一枚ずつ時間をかけて脱ぎ捨てられるべきもので……うーむ。何の話だったか。だから、自分が造り上げたイメージでしか女性を捉えることのできない男性は不幸なのである。いや、むしろ幸福なのか。いや……。

うつうつひでお日記』 に少し飽きてきたところで 『最終兵器彼女』 を読む。まだ単行本の1、2巻しか読めていないので何とも評価できないが、説明が少ないままで状況が激しく変化するため、読む側が追いつけない分だけ感情移入もできていない状態。しかも主題は、オレさまの最も苦手とする、学園ラブストーリーである。そういうのは 『うる星やつら』 でもうオレさまの中では完結してしまっている。無理。

奇しくも吾妻ひでおが 『うつうつひでお日記』 のなかで最終兵器のちさの足首の太さを高く評価していたわけだが、圧倒的戦力という意味では 『無限の住人』 の乙橘槇絵を前にしたときの戦慄のほうが遥かに上を行っていたし(比べるものではないか)、猟奇的人体改造というおぞましさで言えばオレさまのなかでは京極夏彦の 『魍魎の匣』 を超えるものは未だにない(比べるものではないな)。あるいは 『悪魔の飽食』 にあった、生きたまま少年を解体した話の狂気に敵うものを聞いたことはない(比べるのは非常識)。というわけで、まあ 『最終兵器彼女』 も後続の巻を読んでみなければな。

敬愛するやまもと妹子さんmixiに発見し、こっそり足あとをつけてみる。そしてさらに 「お気に入り」 に加える。ストーカーだ。オレさまはもう立派なストーカーだ。と絶叫しながら、しばらくタイガーマスクの替え歌など創作してみるが、なかなか歌詞がまとまらずに我に返る。気分を変えて短歌コミュニティに投稿しようとか思ったりするが、なかなか我が内的世界が文字におさまらず。ふと思い立って、吾妻ひでお関連のコミュニティに参加するも、大人気ないことをしたと後悔しきり。

午後から妻を伴って外出。図書館と貸本屋に借りていた本を返し、妻が図書券を持っているというので、狂喜して大泉学園のショッピングモール内にある書店へ出かけ、数冊の新書を書棚から抜いて妻に渡し支払わせる。降ってきた雨にうんざりしながら、適当に喫茶店を探して腰を落ち着け、紅茶一杯で2時間くらい粘る。雨やまない。

雨の中、自転車を飛ばして帰宅。入浴後、ひやむぎをすすりながらビールを少し飲み、寝る前には、今週末こそ床屋へ行くつもりだったことを思い出し、ベッドのなかで肩をすくめる。