NHKで、『立花隆が探る”サイボーグの衝撃”』 という特集を観る。
以前にもこれと同様の、立花隆によるサイボーグについての最新技術のレポートがNHKで放映され、それはそれはもう大変な衝撃を受けたオレさまであるが、今回は、技術的な紹介については前回とさほど変わった点はなく、強いて言えばやはりというか、脳とコンピュータを繋ぐ研究分野で、脳に電極を埋め込まない手法の開発が進んでいるとのことで、こうした技術の応用がいよいよ現実味を帯びていることは確かだった。

わずか数年後に見え隠れしているサイボーグ化社会についての押井守氏や河合隼雄氏との対話を聞きながら、オレさまはベンヤミンの 『複製技術時代の芸術作品』 にある一節を思い出していた。

 ”複製技術時代の芸術作品において滅びてゆくものは作品のアウラである”

かつて芸術が複製技術によって真性を失ったように、人体のサイボーグ化や、海馬のバックアップや、脳のネットワーク化が進むことで、今度は人生までもが真性を失おうとしている。アウラなきサイボーグ世界というのは、いったいどのような知覚によって歓迎されるべきものなのだろうか。

立花隆は、自らの腕に電極を差し込んだときの体験を 「言葉に表せない」 と情熱的に語っていたが、我々の前には、それを表現する言葉が用意されていないような、まだ見ぬ新しい精神平野が横たわっているのである。河合隼雄氏は、機械の身体能力を得ることで、”本来の自分”の存在範囲を超えようとする衝動をいかに抑え、いかに自己同一性を保つかを重要な課題として挙げていたが、こうした未知なる精神世界への期待と不安を、我々はあとわずか10年の後には乗り越えなくてはならぬのである。無理。

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