昼間は、池袋で買い物したり、実家に行ったりしていた。
昼食には蕎麦屋で定食を食べ、午後3時には甘味屋でおしるこを食べた。

日が暮れて帰宅した後、妻が録画してあった映画 『フランダースの犬』 を観る。
ハリウッドの実写版ということで、ところどころ記憶と食い違う点はあったが、
最後が悲しく終わっている点では評価する。

なにしろ、アメリカで出版されている 『フランダースの犬』 の本は、
ネロの父親が名乗り出てきたりして、ネロを死なせずにハッピーエンドとなるように
改変されているらしい。手前の都合で原作を捻じ曲げるなど、アホかと言いたい。

ついでに言うと、地元のベルギーやオランダには、”コミック版” というのがあって、
これが子供達に人気らしい。日本の産業スパイまで出てくるようなSFなのだそうだ。
アホかと言いたい。

いずれの例も、「内容に救いがなさ過ぎる」 というのが改変の理由なのだそうだ。
アホかと言いたい。もちろん、アホなのは子供におもねろうとする大人たちである。

ルーベンスという画家はバロックの巨匠であるが、バロックという運動は、
宗教改革運動に対抗して、カトリック教会が ”説教より芸術で” という思いつきの
もとに、人々が理解しやすい宗教芸術を後押ししたことで発展したという側面をもつ。
もともと凡庸とさえ言われていたルーベンスが、1600年にイタリアへ移り住んでから
才能を開花させたことを考えれば、彼の画業の本質が見えてくる。

フランダースの犬』 という作品は、1872年にイギリスで出版された。
19世紀イギリスといえば、ビクトリア女王の統治下のもと大英帝国の絶頂期である。
絵画においても、ラファエル前派だのアーツ・アンド・クラフツ運動などが起こって、
オレさまの好きな、バーンジョーンズや、ウィリアムモリスが大いに活動した頃である。

そういうことを考え併せると、『フランダースの犬』 という作品が、単なる悲劇では
なく、カトリック教会を中心とした当時の腐敗した社会構造を批判しようとする意図の
あるものだということが判ってくる。

プロテスタントの教義では、現世における成功は神の加護の証明であるとされており、
与えられた仕事に打ち込むことで、自分が神に救われる者のひとりであることを確認
しようとする。もしもネロが新教徒であったなら、決して絶望しなかったに違いない。

病気と貧困によって押しつぶされた才能、虐げられる犬、教会のベールに覆われた名画、
そうした悲劇はすべて、カトリック教会が産み出したものであると言いたかったの
ではないか。だからこの作品は悲劇でなければならないのである。

イギリスは、プロテスタンティズムを積極的に実践して合理主義や資本主義を発達させ
ながら空前の帝国を築いたのであり、オランダ、アメリカもまた、同じように新教の
理想をかかげて大きく発展した。『フランダースの犬』 はそうした新教運動の絶頂のなかで、
半ば勝ち誇った気持で上梓されたはずなのである。

それなのにどうして、アメリカやオランダの大人たちが、
その内容をハッピーエンドに改竄してしまえるのか。
アホかと言いたい理由がここにある。

ところで、『フランダースの犬』 が、キリスト教国でもない今の日本で人気を
集めている理由は、やはりアニメのなかのネロとアロアとパトラッシュとジョルジュと
ポールがとても可愛らしいからだと思う。宮崎駿の才能によるところは大きい。
強いて言えば、”近松心中” を流行らせ、『昭和枯れすすき』 をヒットさせてきた
文化的遺伝子が、我々日本人の血管の中を脈々と泳いでいることも認めねばならぬ。