昼間、空いている電車に乗ってみたら、前の席に座っているオヤジが本を読んでいた。
ポマードで寝かせた白髪交じりの細い髪、頬はこけ、眼光鋭く、色浅黒く、
チェックのブルゾン、膝のぬけたスラックス、履きこんだビジネスシューズ、
ついでに右耳にイヤホンをつけさせて、後楽園WINSの紫煙の中に立たせれば、
福島競馬の中舘ばかり追いかけてブツブツ言っている自称勝負師の典型にしか
見えないだろう。

このオヤジが開いている書物というのが、モンテーニュの 『エセー』 だった。
岩波文庫の赤である。たしか品切重版未定の状態だったはずである。
良書の要約というものはすべて愚劣なものだというモンテーニュの言葉どおりに、
彼は分厚い原典の何分冊目かを、週刊誌でも開いて覗くかのように、いかにも暇つぶし
に眺めているのだという感じで座席シートにふんぞり返りながら読んでいる。
『エセー』 への理想的なアプローチだ。これはただものではない、と睨んで目的の駅に
着くまでじっとオヤジの頭を見つめていたが、べつに空を飛んだりはしなかった。