昼過ぎから妻と散歩。
涼しい図書館で読書というのもオツだが、炎天下でウォーキングというのも楽しい。
水を飲むそばから汗と流れて、身体の成分がすっかり入れ替わるような爽快感だ。
ときどき線路の位置を確認しながら、知らない道を2駅分ほど歩いた。

オレさまには (妻にはよせと言われるのだが) 何でも値踏みするクセがある。
例えば道を歩いていて、目立つ建物を見つけると、総工費はいくらぐらいかと、
必ず想像してしまう。靴屋のワゴンを横目で流し見ながら、このサンダルなら300円
くらいのはずだと考えてしまう。そうして実際の商品の値札と、自分の見立てとに差が
あると、販売者と自分との間にどんな誤解があるのかが知りたくなる。

例えば、古書店で綺麗な画集を見つけて、買おうとして値札を見たら3万円だった
とする。たかが画集に3万円は高すぎる、と自分の小遣いと比べて考えたりする。
しかし、実はこの画集は世界に30冊しか存在しない貴重な画集で、その希少性ゆえに
店主は3万円という値段をつけたのかも知れない。このとき、オレさまと店主の間には、
その本の残存冊数に関する情報差があったわけである。

ところでこの画集は、実際には世界に3冊しかないというのがさらに正確な情報だっ
たとする。その情報を掴んでいる人がこの店を訪れて、3万円という値札を目にすれば、
きっともの凄く安く感じるに違いない。慌てて即金で買い求めるなり、予約するなり、
するかも知れない。情報量の違いによって、オレさまと、店主と、さらにその人と、
三者が適性と感じる価格には格差が生じる。取り立てて珍しいことではないが。

そんなことを妻に話しながら道を歩くと、電信柱にしろ、マンホールのフタにしろ、
自動販売機にしろ、目に映る全ての事物が誤解を含んだ情報のカタマリのように思えてくる。
実際、我々は、標準的な電信柱の背の高さも太さも知らないし、マンホールのフタの重さも
直径の長さも知らないし、自動販売機に収められ得る缶ジュースの最大本数も知らない。

自分には知らないことが沢山あるのだという自覚が、まるで幼児にもどったかのような
新鮮な感動をもってこの世界を受けとめようとし始める。1つの品物から、より多くの情報
を読み取って、少しでも正確な数値に換算しようとする努力は、あるいは幸福のための
小さなエクササイズのひとつなのかも知れない。

逆に、気をつけていないと、値札を見てモノの価値を判断してしまう誤りに陥る危険性が
貨幣経済の社会では常につきまとう。150円のアイスが、必ずしも100円のアイス
よりも価値が高いとは限らないのだが、それにもかかわらず、150円という値札に安心
してお金を払っていることはよくあることだ。そうしたとき、たいがい思考は停止している。

歩き疲れて着いた先の、駅前にあった自然食品の店で、
カナダの自然水に酸素を10倍も詰め込んだとかいう飲み物を買ってゴクゴク飲んだ。
そのペットボトルは普通の水の約1.5倍の値段の160円だったが、本当に通常の10倍の
酸素が詰め込まれているかどうかはオレさまには知る術もなかったわけである。

夕陽を浴びた電車に乗って帰ってくる。