東京夕駿

とりあえず洗濯機のピーピー鳴く音で目が覚めた。
ダービーの夢は観なかった。こんな不吉なことがあって良いのだろうか。

妻に提案し、率先して洗濯物を干す作業をやらせていただく。
オレさまがローゼンクロイツにしてやれることがあるとすれば、
せいぜいこのくらいのことしか無いだろうからな。POの行いが良ければ、
それだけ指名馬の道中も安全というものである。

妻はまた眠ってしまった。オレさまは洗濯物を干して、さらに布団も干して、
食事を済ませた後は、午前中かけて、ゆっくりH賀ちゃんにメールを書いていた。

午後は少し昼寝をする。なんとしてもダービーの夢を観なければならぬ。
いよいよ 「ディープインパクト圧勝おおお!」 のような逆予知夢を観て、
とにかく気持ちだけでも安心したいのだ。

午後2時過ぎまで眠っていたが、キチンと目が覚めてテレビをつける。
結局、最後までダービーの夢を観ることはなかった。こんな不吉なことがあって
良いのだろうか。しかも降らせるはずの雨雲はどこへ消えてしまったのか。

スーパー競馬』 というヤツはいつもこうだ。いきなりディープインパクトの、
デビュー戦から皐月賞までの4戦のVTRをまとめて見せられた。
とても暗澹たる気分になる。どう考えてもダービーはこの馬で鉄板だ。

やがてパドックの周回が始まる。
課題となっていたローゼンクロイツのイレ込み具合は、今日は見違えるように
落ち着いていた。ただし問題なのは、他の馬を引率している人達がみな首に
ネクタイを締めているのに対し、ローゼンクロイツの厩務員は赤いポロシャツに
Gパン姿である。後で記念写真に写るのだというような緊張感がまるでない。
これは遺憾。ローゼンクロイツは負ける。

さて注目のディープインパクトは、どういうわけかチャカチャカしている上に、
何度も尻っぱねまでして、ヤケにうるさいところを見せている。どう見ても、
ダービーを勝ってしまいそうな雰囲気にはない。うーむ。やはりそうか。

いや、そうに違いない。

これは明らかに、何者かの手によって、飼葉か水桶に何か混ぜ物をされたものと
思われる。犯罪の匂いがする。どこかで強引に無理矢理にディープインパクト
負けさせようとする陰謀が働いているのではないだろうか。いや絶対にそうだ。
ディープインパクトも負ける。

馬券は買わずに観ることにした。眠っている妻を叩き起こし、
雨が降らなかったし、イレ込んでもいるようだから、もはや無用かも知れぬとは
思いながらも、側に妻を座らせてファンファーレを待ち、
ゲートが開くのとタイミングを合わせて、

「ねえ、ねえ、ディープインパクトの蹄鉄ってさ……」

と妻に話しかけると、
案の定、画面の中のディープインパクトがクシャミをして出遅れた。
作戦成功である。妻は再び寝室に戻っていった。

しかし、これはどうだ。ローゼンクロイツも相当に行きっぷりが悪い。
抑えているのかどうか知らぬが、他の馬のスピードについていけてないように
思われて仕方がない。もうどうでも良いから、さっさと終わってしまえ、
という気分になってきた。

ディープインパクトは慎重だった。後方から少しずつ順位を上げて行き、
予想していたとはいえ、直線をむかえると前がふさがる不利を避けて外に出て、
しかもそのコーナーロスについては何とも感じない様子で、いとも軽やかに、
まるで水面に投げられた小石の様に、華麗に他馬を突き放して先頭でゴールした。
悪の手先のオレさまは、ただその美しさに呆然とするばかりである。
これこそが絶望という感情ではなかったか。

それからテレビを消し、マンガを少し読み、パソコンの電源を入れ、
インターネットで2ちゃんねるの競馬板を少し覗き、ふと日が傾きかけていることに
気がついて、冷蔵庫から缶ビールを取り出してフタを開け、小さな庭を眺めながら、
モッコウバラは咲いているときは綺麗だけれど枯れ始めると掃除が大変だ、
などと考えたりする。

夕暮れとは、せつないものだ。

日が暮れてからは、溜まっている洗い物を片付け、風呂の掃除をし、
Yシャツにアイロンをかけた。働いていないと、いろいろ考え込んでしまうからだ。
それから妻をそーっと起こし、夕食について具体的な対策を検討してもらう。
とにかく生活をすることで、いまの気持ちを紛らわせたい。

ふと魔が差して、食後にパソコンを起動してメールのチェックをしてみたら、
パドックにいるローゼンクロイツの写真が、府中競馬場に行っていたM川女史から
送られて来た。涙を堪えながら返信する。もちろん明日は会社を休むつもりだ。