鎌倉

問題は晴れの日ばかりではないということだ。
”去る者は追わず、来る者は拒まず”というが、たとえば釈放の日を迎える囚人はその状況をどのように喩えるだろうか。囚われの日々は”去り行くもの”に喩え得るだろうか、見当もつかぬ明日を漠然と近寄って来るものと認めることはあろうか。そんな世迷言を病床の文人が聞けば、”去年とやいはむ今年とやいはむ”というような言葉遊びに過ぎぬと笑われてしまうかも知れない。タンポポの種が振り返りもせずに飛んでいく。車窓から見上げるのは曇り空。色即是空というよりも碧い空の色が恋しくある。

北鎌倉の駅はいつものように大混雑した。横須賀線は一番前に乗るべきか、一番後ろに乗るべきか、「適当でいいや」なのか、”去年とやいはむ今年とやいはむ”というようなことで思い悩む自分のような場合は、一番後ろの車両から降りてぷらぷらプラットホームを歩きつつ、混雑のほとぼりの冷めるのを待ちながら先頭の改札口を目指したい気分だった。

だいぶゆっくり歩いたのにもかかわらず、行列の後ろに届いてはしばしば立ち往生させられた。いつの間にかSuicaの読み取り装置が設置されている。スイカの読み取りは叩いた音でするのが作法と近所の八百屋さんに教えてもらったこともあったがそれはそれとして。suicaの存在は想定の範囲内ではあったが、ここでもITかとなんだか淋しいようにも感じたり。残高不足を思い出したり。チャージするためには対岸の改札まで移動するように指示され、列車の通過を待ってから駅構内の踏切を渡る。不便などではない。北鎌倉に利便性を求めるほうがどうかしている。約束の10時にはまだ5分も余裕があったはずだが、どうやら自分がいちばん最後だったようだ。

鎌倉五山第二の円覚寺曹洞宗だの京都妙心寺派だのとどう違うのかよくわからないが、夏目漱石あたり読んでみるのも良いかも知れない。仏殿前にカメラ女子が数名、どうして見上げるようにしながら柏槙の梢の写真を何枚も撮っているのかわからない。ついでに宝冠釈迦如来というのがどうにも違和感。龍の爪が3本しかない理由を自分の知っている範囲で語ってみる。日本<朝鮮<中国で1本ずつ5本まで増える。しかし本当はまだその先に某国があって、まあ、いいか。勅使門に施された龍の透かし彫りを写真に収める。紫陽花にはまだ少し早かったか。境内を一回りして出る。

そこから歩いてすぐの明月院を拝観するのは実は初めてだった。googleストリートビュアーで入口までは行ったことがある。途中の葉祥明美術館にちょっと後ろ髪ひかれたが、団体行動を乱さないように直進。道沿いの川にかかった小さな橋に若い女性が日傘をさして立つ。カメラを携えた初老の男性が彼女にポーズをとらせていた。道をはずれかけていそうな二人に嫉妬を感じつつ、団体行動を乱さないように直進。

明月院の境内は思った以上に広かった。紫陽花の株も本当にたくさんある。残念ながらここもまだ開花には至っていない。同行のH氏に、北条時頼とは誰かと聞かれたが「さあ、御成敗式目とかですかね」「おお、御成敗式目という言葉が出てくるだけ立派ですね」という感じ(後で調べてみたがハズレ)。本堂正面の枯山水の前では、いずれ劣らぬ名探偵が集まって、犯人がどのようにしてこの砂利の波を仕上げたのか議論する。その隣から振り返って本堂の屋根の上を眺める。鯱鉾のように寝ころんでいる二人の天女を写真におさめる。彼女たちには同じ境内の竹藪のあたりでも再会できた。

建長寺。建築の価値は常にデカいか、デカくないか、である。山門のデカさに驚くなよと、接近しながら何度も同行者たちに言って聞かせておいたが、やはり何度見てもデカい山門であると自分が驚く。この仏殿には地蔵菩薩が座っている。仏の道をロクに知らぬ身の気楽さで言うわけだが、五山第一の本尊が何故にお地蔵様なのか。しかも座っておられるとはどういうことか。という素朴な疑問がいつも浮かんでくる。法堂の天井画の龍は爪が5本ある。強気なのである。苦行中の釈迦像はパキスタンから寄贈されたという品物でじつに迫力があって印象深いのだが、その前にいる狛犬みたいな何物かの像も非常に気になる。いやそれよりもやはりお地蔵様のことがずっと気になる。

予定にはなかったが、どういうわけか半僧坊まで登ってみることになった。ずいぶん体力が衰えていることが内々で判明。認めたくないという、ただそれだけの理由から愚かにも軽快なステップで登る姿を見せてしまっている。登りはまあ良いのだ。暖かそうな大天狗の背中越しに見はるかす太平洋は、霞がかって、なんだか永遠に辿り着けない天竺のように思えた。登ったのだから当然降りる。ハイキングが英語かどうかで揉める。肺に菌が具わる病気を「肺菌具」と呼ぶのだと主張する。とにかく降りの階段はこたえた。

ところで鎌倉では、犬を連れた人をたくさん見かけるが、ネコはあまり見かけない。野良ネコも見かけない。ネコ派のKさんに「犬に仏性はありますか」と問うてみたところ、「ありません」と言いながら、ネコは柔らかいが犬は堅いのが難点ですと教えてくれた。腹に毛がないのも減点らしい。

階段昇降がこたえたのか、めっきり会話が減って、黙々と小町通りまで歩く。フランス料理『それいゆ』へ。ここもgoogleストリートビュアーで入口までは行ったことがあるところだ。涼しい顔で魚のランチコースを注文。音楽はサティやドビュッシー。壁にはユトリロ作と思われる油絵が飾られていた。見たことがない建物の絵だがこれもパリの何処かなのか、ワインでも飲めば分かりそうな気もするがここは自粛。グラス売り用のワインの瓶から空気を抜いている様子を観察したり、ピアノの教師で稼ぐ方法について話したり。

鎌倉駅から江ノ電江ノ電がなぜこんなに混むようになったのかという疑問については、おそらくSuicaの効果ではないかと推測する。いままでみんな乗りたいと思っていたのだけれども、切符売り場が小さくて、並んできっぷを買ってまで乗りたいわけではないような気がしていたのではないか。まあ、いいか。民家の狭隘を縫って走る列車のなかで、バード(といっても鶏やスズメ)ストライクの心配などしながら極楽寺まで移動する。

しかし極楽寺はパスして成就院。山門付近から由比ヶ浜を遠くに見下ろす。『青い花』にも出てくる風景が広がっている。紫陽花の石段を降りるとすぐに南無虚空蔵菩薩。無とか虚とか空とか、ニーチェが聞いたら発狂するだろうな、などと軽口を叩いてみたら、南無はナマステと関係するもので、この場合の「無」は関係ないとOさん。まあ、いいか。

そのまま歩いて海に出る。潮風が気持ちよい。少しだけ砂浜を歩いたのち、再び人の気配の少ない住宅街を経て長谷へ。長谷寺の前の土産物屋にオウムが居る話をする。残念ながらフクロウ。しかも喋るハイテクおもちゃ。しかも羽根が止まっているときしか話しが聞けないシングルタスク。こんなことでまた嘘つきよばわりされてはたまらない。長谷観音に合掌。バン茉莉とかいう花の香りがとても良い。見晴らし台からの見晴らしが良い。おみくじは「末吉」。Y氏が「吉」と聞いたので、ここは練習、次が本当の勝負だからと念を押しておく。

高徳院。Y氏とH氏は大仏の中に入る。「こいつ、動くぞ」と中から誰かの声が聞こえてくる。背中のほうに窓が二つもあるとは知らなかった。連邦のモビルスーツは化け物か。二人のパイロットの帰還を待つ間に、境内の売店で教育まんが『地獄と極楽』を購入。ちょっと嬉しい。

長谷駅から再び江ノ電に乗って鎌倉駅へ。鶴岡八幡宮までの参道を歩く。再起をかける大イチョウの姿を写真に撮る。おみくじ「小吉」。Y氏も同じ。結婚式2組。少し歩いて駅近くの『レザンジュ』で最後の休憩。”マカロンみたいなの”の話。現地解散。お土産は鳩サブレー5枚入り。帰宅して地元でビール。『高校球児ザワさん』買って読む。