妻の腰痛は漸く治ろうとしているが、もはや花見の野望はついえ、鉢植えの海棠も盛りの頃を過ぎてもう散りかけている。そのうえ四月も半ばを迎えるというのに、何故に氷雪がチューリップの背を曲げねばならぬのか。得心のいかない春が、じわじわと終わろうとしている。

それにしても海棠とはこんなにも花をつける種だったか。枝という枝が薄紅に埋め尽くされている。枯れてしまった先代の海棠は、もっとずっと花の数が少なかったように思うが、あれはやはり生命力が衰えていたのだろうか。あの美しさがいつまでも忘れられない。あるいは「死に花」とはそういう類のものなのか。単なる感傷か。