朝9時出社。久しぶりの日曜出勤。午後2時頃には退社。そのまま実家へ移動。天気が良いので母を連れ出して少し散歩。こんな風に過ごしても、ダービーがダービーがと焦ることもなくなった。府中は遠くなりにけり。母を実家まで送ったのち、今度は義父母と待ち合わせて食事。どちらにしても世間話。
Wikipediaによれば、システムとは、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体のことらしい。要素があるだけではなくて、要素同士が関係しあっていることが重要なのである。またシステムには入出力がある(オープンな)ものと入出力が無い(クローズドな)ものがあるらしいが、およそ人間社会のなかで生み出されたシステムであれば、入出力を伴うものに限られるのではないかと思う。つまり、影響を及ぼしあうにも一定の方向があるということだ。”ピタゴラスイッチ” のイメージがとても判り易いかも知れない。
何らかの制度や手続きについて、それが 「システムである」 ということの認識を際立たせるためには、その要素と、要素間を結ぶベクトルとを明確にすれば良い。要素を明確にするということは責任の所在を明確にするということで、ベクトル(長さと方向)を明確にするということは、どちらからきっかけを作り、どのくらい時間をかけて伝えるのか、そういうことを確かめることなのかも知れない。とにかく、入力から出力までの道程に迷いや紛れの余地を残さないことだ。仮にもシステムと見做されるべきものならば、このことについて必ずどこかで言及されなければならない。

こういう言い方をしてみれば、やはり家族や恋人や友人の関係はシステムではないようだ。あたりまえの事かも知れないが、人と人との個人的な係わり合いは、柔軟で、不確実で、ときに不誠実で、また理不尽なものでもある。愛情はつねに逆流し、責任はしばしば雲散し、信頼はときに枯れ細る。三段論法で恋愛が成就することはなく、”背負うた子に浅瀬を教えられ” という諺にもあるように、親子でさえその役割は自由に反転する。どんな関わり合いにおいても明確なアウトプットが示されることはなく、そもそもそんなものには何の意味もないし、何の効力も持たない。それでも関係は成立している。