午前中に家を出る約束だったが、二日酔いのため昼頃までゴロゴロ。午後になってやっと復活の兆しが見え、液体胃腸薬の瓶を握り締めながら妻と一緒に家を出て川沿いをふらふら散歩する。湯煙のように湧き立つ羽虫の群生、ナイヤガラの滝のように止め処なく流れ落ちる枯葉、雲と羽虫と紅葉と、人と電車と空き缶と、幾重にもすれ違う不易と流行の刹那に身を置きながら、銀杏の成長、胃腸薬の整腸、イ長調の静聴、いろいろ思うことはあるわけだが、植物はなぜ枯れるのかということについてしばらく考えてみたり。水をやり過ぎるなとか、どんな世話が必要だとかいう草木を枯らせないための工夫や、気温が下がると葉緑素の活動が鈍るとか、落葉の準備のために葉の付け根に離層ができるというような植物が枯れる状況を説明した書物はよく目にするが、では植物は一体何のために枯れるのか、枯れるとは植物にとってどういうことなのか、その概念を解説する文章にはまだ出会ったことがない。樋口一葉森鴎外林芙美子平岩弓枝木田元、龍樹、誰に聞いてもわからない。植物の生・老・死の本質とそのサイクルを自由に調節する技術が解明されれば、車体から車輪から動力から細部のネジ1本1本にまで植物の死と再生の循環エネルギーで駆動する、究極のエコロジカル自動車を生み出すことが出来るのではないか。1台だけでは季節によって乗れない時期ができてしまうから、春植えの自動車と、秋植えの自動車と、どちらの家庭でも2株ずつ栽培すれば良い。水と光だけで走るのだから経済的な心配は多分要らないだろうと妻にPRしたところで空腹を思い出して、ファミリーレストランカレーうどんを食べる。