割りに早く仕事を終えたので、会社帰りに書店に寄る。自分と同じタイミングで店に入った色黒の痩せたオヤジが 「よう、ネイちゃん」 と、書店の入り口にいた女子店員に話しかけた。本を探してくれ。白州次郎。いちばん安いのでいいから。と声を張り上げている。店の奥に走り去る女子店員、入れ替わりに店長がオヤジを迎え撃つ。珍しいことでもないので、自分はさっさと奥の文庫の書棚に歩いていったが、それほど広い店でもないため店長とオヤジのやりとりは自然に聞こえてくる。
「どのような本をお探しですか」
白州次郎。いちばん安いのでいいから」
白州次郎のどのような本でしょうか」
マッカーサーが、GHQが、と大きな声で語り始めるオヤジ。酒は飲んでいない様子だが、酔っているのかと思わせるような景気の良い語り口。自分は書棚に並ぶ文庫の背中を眺めていたが、やはりそのやり取りが気になってしまう。ふいに店長が、オレが立っている近くの作業棚のほうへ走ってきて、パソコンの画面に向かってマウスでカチカチやり始めた。すぐ側なので画面を覗いてみたが、どうも何をしているのかよく分からない。女子店員の一人が駆け寄ってきて、私が探しましょうか、とか言うのだが、いいからキミは他の仕事を進めなさい、と店長は責任者としてこの問題を冷静に処理しようとしている。

白州次郎はこの数年静かなブームを呼んでいる。つい最近も、新潮文庫から白州次郎の本が出たばかりである。オレさまも、白州次郎に関して書かれた本なら何冊か読んだことがあるが、店長がオヤジのためにどんな本を選ぶかに興味があった。当のオヤジは、向こうのカウンターに肘などついて、さっきの女子店員と話しこんでいる。オレよ山形から出てきて少し訛ってるから、言葉が聞き取り難いかもわかんねえな、まあ、2ヶ国語を喋ってるようなもんだろ、外国人の苦労が分かるのよ、店長はそのカウンターの様子が気になるらしい。マウスをカチャカチャやったつもりで、書籍の検索もそこそこに、レジに引き返してオヤジに苦言する。
「あの、他のお客様の迷惑になりますから」
「お、白州次郎。みつかったか。いちばん安いのでいいんだ」
マッカーサーが、GHQが、と再び大きな声で語り始めるオヤジ。店長の声が聞き取れないが、そのやり取りの弾みで、どうやらつい警察を呼ぶと言ってしまったらしい。
「ん。いいの、いいの、オレが警察だから。○○署の課長だから」
オヤジも、言わでものことを言ってしまう。きっと、いつもこうしてきたのに違いない。「ただ職務上から名前は明かせない」 とか言っている。
「ですから他のお客様の迷惑になりますから」
「何を。客に対してその態度はなんだ。こら。表へ出ろ」
このあたりでもう、何ともやり切れない気分になってくる。せっかく白州次郎の意気に感じてその生涯など辿ってみようと思い立ったはずなのに、もう何もかも台無しである。オヤジの胸の内にはもう涙がとめどなく溢れ出している。
「ふざけるな、なんだこの店。もう二度と来ねえよ」 ここから2、3冊くらいかっぱらって帰るからな、ざまあみやがれバカヤロー。
こんな捨て台詞を残してオヤジは肩をイカらせて去っていった。オヤジの去っていく背中を眺めながら、自分はあまりの結果の不味さに腹を立てていた。確かにこれは不幸な事件だったかも知れない。店員も怖がっていたし、他の客も落ち着かないし、店長は店内の平和を守る義務を感じていたことは良く分かる。しかし、オヤジを追い出して、それで満足なのかと問いたくなってしまう。

誰が言い始めたのかは知らないが ”お客様は神様” とかいうような生臭い台詞を、念仏のように唱えながら悟り顔で店に立つ輩は、逆に自身が顧客の側に入れ替わった際には相手に同じ価値観を強要する可能性が高いわけで、そうした無限の役割交代をポンプとしてストレスばかりが血液のように巡回し続ける社会というものが、我々人類の理想であるとは思いたくない。だから、オヤジの尋ね方にもかなり問題があったと思うのだが、しかし、広く社会に書物を普及させようという役割を担う人々が、結果的にあるひとつの好奇心に対して何ひとつ良い反応を示せなかったことは、これはとても残念なことではないか。一人でも多くの人に本を読ませたいという情熱をなくしては、書店を開いている意味がないのではないか。オヤジは、もしかしたらもう、本も、本屋も、白州次郎も、何もかもが嫌いになってしまったかも知れないが、どうか別の形で、白州次郎の書籍を手に入れられることを切に願う。