目が覚めたら9時を過ぎていたので、慌てて着替えて図書館に行く。廃仏毀釈のことを考えていたら、日本のフーテンとアメリカのヒッピーとの相違点が気になりだして、だいたひかるが突然気分が良くなったので歌を歌いますとか言い出しかねない問題ではあるが、ビートルズのインド旅行のことや、サリンジャーの作品にみられる諦観や、『カモメのジョナサン』 を翻訳した五木寛之のその後の仏教転化までの経緯や、60年代後半に 『仏教の思想』 シリーズが角川書店から大々的に出版されていることや、その一方でキリスト教系の原理運動が学生間に広まっていったことや、いろいろ気になる点があるため、戦後の風俗がまとめられた資料を中心に借りるものを借りて昼過ぎに帰宅。

妻が庭のさざんかの前でうずくまっている。どうやら枝の剪定を誤ったらしいことは、不自然に欠けた若葉の群生を見れば分かる。そういえば、映像手段の弱点は不在や否定を表現することが難しい点であると聞いたことがある。確かに、いくら暗い夜空を画面に映し出して見せたとしても、必ずしも ”そこに月が無いこと” がメッセージとして受け止められるとは限らないわけだが、しかし、どうだろう。我が家の庭のさざんかについては、あるべき枝が無いことがもう一目見ただけで分かってしまうくらい不自然な状態である。妻が涙ながらにいろいろと解説してくれるのだが、百聞は一見に如かずというわけで、しばらく玄関先で呆然とする。

それから暫くは借りてきた本を読んでいた。妻も椅子に座って本を読んでいた。庭木に起きたことなど忘れ、何事も無かったかのように、静かに過ごした。それこそが、人類が4百万年かけてついに獲得した ”時間” という概念の持つ威力なのである。まあ、いいか。夕方4時頃になって、やっと散歩に出かける気になった。妻と連れ立って、ひと駅分くらい歩いたのち、客の少ない珈琲館で夕陽など眺めながらミルクティーなど飲み、また夕焼けに頬を染めつつ同じ道のりを歩いて帰ってくる。