体調悪い。午前中は来客。午後は妻を伴って池袋の東京芸術劇場へ、フジ子・ヘミングとモスクワ・フィルが 『皇帝』 を演奏するというので聴きに行く。体調悪いのだが。長いエスカレータを降りて、会場に入ってみたら、とりあえずフジ子の版画の店頭販売。弟の大月ウルフが店先に立って何やら大声で叫んでいる。あんなもの写真だあ、とか言っているのは、どうやら世間にパチ物が出回っているのを憤っているようである。その前で、千円札を握り締めた買い物客がうろたえている。

購入してあった座席は2階の最後部席だった。ときどき和装の女性を見かけたりして、ちょっと嬉しい気分になる。光はオリエントから。第1部はモスクワ・フィルによるグリンカとかチャイコフスキーの演奏。ピアノは舞台の端に追いやられている。楽器の名前は分からないけれども小さいクラリネットのような金色のやつがプカーと鳴るのがスラヴ風。とりあえず弦楽器の淀みなさに感動する。入門クラスのオレさまであるが、これほど統制されたオーケストラに会うのは初めてではないかと思う。プロのなかでも練習量が多い楽団なのだろうか。ユーリ・シモノフは偉い。

入門クラスのオレさまは、そのうちに、出番の少ない打楽器の人たちが、どうやってモチベーションを維持しているのかが気になりはじめる。オーケストラの最後方で、パイプ椅子に座って演奏するタイミングを窺う二人の奏者。黙々と指揮を眺めている。
 「あ、あいつオレのネクタイしてる」
 「オレが貸した」
 「なんで」
二人やにわに立ち上がって、シンバルと太鼓をドンシャンとやる。そしてまた椅子に座る。
 「古新聞の束を結わえようとしてたらさ、あいつが通りかかった」
 「うんうん」
 「タイがないっていうから、持ってたヒモを貸してやったんだ」
 「それはよかった」
二人やにわに立ち上がって、シンバルと太鼓をドンシャンとやる。そしてまた椅子に座る。
 「今晩スシ奢るよ」
 「いいね」

いや、実際にはもっと難しい話をしているに違いない。なにしろユーリ・シモノフの指揮下だからな。貨幣経済がどうこうとか、地球は青かったとか、そんな感じだろう。シンバルと太鼓の二人に比べて、ティンパニー奏者は立ち詰めでやや忙しい。皮の張りに逆らわない絶妙な 「引き」 で観衆を魅せる。あの手捌きなら、鉄板焼き屋の仕事でも食べていけそうである。

アンコールを含めて1時間半は演奏してくれたかも知れない。ユーリ・シモノフは良い。10分の休憩を挟んで、第2部でいよいよフジ子登場。名前がそうだからと言って、ルパン3世のものまねをしてみようという気には、なかなかならない雰囲気で、とりあえず彼女はのっそりと現われる。めんどくさそうに手を振って座る。なぜだか気だるい空気を帯びて 『皇帝』 が始まる。もしも音が無かったならば、フジ子は徹夜明けで手積みのマージャンをやっているようにしか見えない。ときどきツモるし。しかし目を閉じて感覚を耳に預ければ、見よたちまちにして勇壮な地平が広がりはじめる。ピアノの馬蹄が古代ローマ人の敷いた街道を踏み鳴らし、馬上のナポレオンは国語辞書を開いて「ふ」の頁を忙しく指でなぞる。とくに第3楽章はピアノという名前が嘘かと思われるほどに力強かった。フジ子はエンジンのかかりが遅いタイプらしい。アンコールでは、ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11第2楽章を演奏。さらにその後、ピアノの独奏で、ショパンの 『革命』 と、リストの 『ラ・カムパネルラ』 も演奏された。納得して帰る。