人間の肉体のなかで、一番裸の部分は肉声である……(中略)……だが、
残念なことには、裸の肉声は、いつも惑わしに充ちた言葉という着物を着ている。
小林秀雄モーツァルト』)

佐野元春あたりからだろうか。サザンオールスターズあたりからだろうか。
田原俊彦が 「ドーれすの色で、コーころを着替え」 とやった頃には遅れていると思った。
”近頃の歌謡曲は歌詞が多いな” と感じ始めてからいつしか二十年が過ぎてしまった。
そのうちラップみたいなのが流行ったりして、最近は朗読のような歌も当たり前になった。

友人とバンドを組んでいた頃、曲の一部について歌詞をのせるかのせないかで揉めたことがあった。
作曲を担当したオレさまはとしては、そのメロディを裏声をもってただ発声させたかったのだが、
ヴォーカルはそのメロディに歌詞をのせたがった。オレさまは今でもその事を根に持っている。

太古の昔には言葉は無くとも歌はあったはずだと信じてやまないオレさまと、
人間は言葉を用いるからこそ人間たり得るのだと確信しているヴォーカルと、
野生と人間性の対立は、どちらも幼稚な綱引きを譲らないまま、
やがて離散することになった。

いま思うと、自分が弾くギターの音は ART であり、彼の肉声は nature である。
ギターは自然な響きを追い求め、歌声は人の産み出した言葉の力を確かめようとし、
何のことはない、互いを切望したがゆえの悲劇だったのである。

ルネサンスの人々は、神の創った現実世界を模倣することで彼岸への思いを強めた。
カスティリオーネ 『廷臣論』 ) しかし、それは上野動物園で強化ガラス越しに
ゴリラを眺めるようなもので、どんなに近づいてみても、ゴリラの鼓動や、
筋肉の強張りを肌で感じることはできない。

我々現代人はそのことをよく知っている。美をどのように積み重ねても、
それがバベルの塔の高さにさえ届かないことをよく知っている。
では、アタシたちオカマにとって美とは何か。