残業を終えて夜22時頃、JR御茶の水駅の1番線ホームで、尾久彰三先生とすれ違った。
「失礼ですが尾久先生ではありませんか」
「いかにも」
「やっぱり。あなたを敬愛する者です。サインをいただけませんか」
「はい。しかし……」
「このYシャツで結構です。背中のほうにお願いします」
と、心の中で会話をシミュレートしながら、古美術の世界に踏み込む勇気を持てぬ
自分を歯がゆく思いつつ、遠ざかって行くトレンチコートの背中を見送る。
どうぞお健やかに……ああ、やはり本当に話しかけてみればよかった。
ええい、くそっ! 世間は広いのか狭いのかよくわからん。

心の中で、自分の背中を莫迦莫迦莫迦! とグーで叩きながら帰宅して、
妻と一緒に 『チャングムの誓い』 を観る。

オレさまはこの、チャングムの師匠であるハン尚宮という人が大好きである。
”口数は少なく真面目で厳しいが、料理の腕とその細やかな心配りは秀逸”
とNHKの公式サイトにあるとおり、厳しさゆえに誤解を受けやすいようだが、
高い理想を追い求め、いつもうつむき加減で、何かを自問自答している。
オレさまはときどき彼女の不器用さを可愛いとさえ感じてしまうのだ。