職場で椅子の背にもたれ、のけぞって ”イナ・バウアー” の練習をしていたら、
「それちがう」 と指摘された。何が違うのか。

『漢文の素養』 を読み終える。
著者はまだ若い人で、漢文はまだまだ継承されていくのだと認識を新たにする。
なんだか猛烈に漢文ひいては中国語の勉強がしてみたくなった。

われわれ現代の日本人は西洋的な教育を受けて育ってきたが、
19世紀までの日本人は漢籍で学んできた。東洋には東洋の一大文化圏が存在し、
漢文は東洋の共通語として中国、朝鮮、越南、琉球などで普通に使われていたのである。

その漢文で著された書籍のうえに、いまだ西洋人(つまり我々)が踏み込んだことの
ない不思議な世界が広く横たわっているのだ。考えてみれば当然のことだが、漢籍には、
我々が授業で習ったような詩や文学ばかりでなく、実用書や、理科学に関する書物も
沢山あったそうである。我要読那些本! 肚子特別疼!

というわけで、我家には、妻がやりかけてすぐに放り出した入門書が一冊、
書棚でほこりを被っていたことを思い出し、中国語の勉強を30分ほどしてみる。
基礎文法は英語に近いのであまり抵抗はないが、発音はとても難しい。
うーむ。

じつは漢文と同じようなことが、アラビア語についても言える。
中世ヨーロッパはキリスト教会の厳格な統制下にあって、ギリシャ・ローマの気風を
意識的に退けてきた。その結果、すっかり古代世界を忘れてしまっていたらしい。
古代ギリシャの正当な後継者は、ヘレニズム文化を受け継いだイスラム世界で、
だからルネッサンス期の人々は、アラビア語で書き残されたギリシャ文明をイスラム
から逆輸入(?)したのである。いまの我々が知るギリシャとは、アラビア人によって
翻訳された書物のうちの、さらに欧州人に翻訳されたものに限られているのだ。
地中海の古代文明に限らず、アラビア語の書物のなかには、まだ沢山の不思議な世界が
隠されているに違いない。

というわけで、我家には、アラビア語の入門書が一冊、半年前からある。
うーむ。

かつての日本人は、発音ができなくても漢文の筆談で外国人と会話できたそうだ。
『漢文の素養』 の著者も、東洋の他国と漢文メールで会話しようと勧めている。
賛成。